hair

 左の肩を包むようにして、熱は男の傍に寄り添っていた。無機質な床の木目に沿って柔和な白色のスリッパを放つ。張り付く軽い音を響かせた様は、男が彼女を笑わせることに成功した瞬間にどことなく似ている。細い足首を隠す、ズボンの裾、彼女の裸足の爪に指を重ねた。骨の浮いた、いかにも軽そうな右足が引くりと揺れ、優しく咎める声がゆっくりと落とされる。引っ付けていた肩を小さく叩かれ、思わず口端を上げ仰ぎ見る。少し屈められた髪先が視界に広がっていた。橙に染まった室内、直に床へ座した男には、ソファに腰かけた彼女の表情を窺い知ることは出来ない。溶け切らなかった角砂糖のように、フローリングにそって流れ、沈殿していく時間。止め方を知っていたなら、永遠を手に入れられていただろうか。陳腐な鼻唄が歌えそうだ。安いメロディーも一定を刻む秒針がメトロノームのようで、あたかも計算された名曲になる。巻き戻しの効かないオーディオほど、物寂しいものはない。夜の足音は聞き慣れたものだ。

(寄り道をした。男の左手にスーパーの袋をぶら下げて、ちょっとだけだと、なかなか首を縦に振らない彼女を右手に。今日だけだから、次は来週でもいい、次の休みは一日中読書でも我慢するから、なんて。誰にともなく呟いた音は彼女への約束ではない。それを無意識に感じたのか、気付かないフリで甘受した聡明な優しさに胃が疼いた。騒つきを閉じ込めた夕暮れ、たいして変わり映えのない小さな世界だと言えばそれまでで、それでも小さな犠牲を糧にしたこの右手の体温が、不覚にも男を退化させる。コロッケや惣菜、よく見かける散歩中の野犬、偏った語彙力を総動員し戯れる、触れそうで触れない、つまり、離れそうで凄く近い、そんな体温が隣にあるだけで世界は楽しかった。満たされる心臓の音、肩先が掠めるたびに擦り切れる距離。足りなく感じること程、贅沢なものはない。夕焼け空の髪に触れたくなる衝動を抑えながら、ただ、考えていた。)

 互いは、確かなものを間に置いた例はない。世間一般の過剰論、形を求め、固持するために、言葉は必要不可欠なのだという。そこに傷付き、崩れ、脆く泣いたとしてもだ。彼女は女のように弱くはない。見えないからこそ創りたがる言葉の誓約を求めることはない。突き付けたことはない。しかし女のように強くもないと知っている。見えない悲鳴を、じっと左胸の底で聞いているのを知っている。不確かながら、合図となり得るその一瞬が、やはり怖いのだ。男がこの体温を感じるたびに退化する原因がここにはある。


 夜空が地面を飲み込む手前、右腕は柔らかな髪に触れる。

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