全てのことがらが嫌になって泣きたくなった時に、私は森にいた。ここがどこなのか、そしていつ来たのかさえ分からない。とにかく、私は一人、呆然として深緑の只中に立っていた。鮮やかな朝靄の匂いがしていたのを覚えている。慣れないパンプスで踏みしめる腐葉土の感触は、幼い頃に触ったアゲハ蝶の幼虫を思い出させた。

未知の森林に迷い込んでしまった事実を勘案するよりも、森自体が持つ不可思議な包容力と言うべきものに、私はほだされていた。要するに……要するに、時折聞こえる、木の葉が擦れる音や、獣糞の粘ついた匂いや、葉脈の拍動など、森を構成する、細やかで洗練された材料に、私は魅入ってしまったのだと思う。それは、実際的な事実をも超える、雄大な森の威光だった。

大きく息を吸い込む。そしてそのまま、呼吸を止める。肺に取り込まれた森の空気は血液の循環路に乗って私の身体の隅々にまで行き渡り、骨を、肉を、神経を、優しく洗い流す。

自身の鼓動を感じながら、大きく息を吐く。

生きている。酸素の回った脳みそが、不意にそんな言葉を弾き出した。

それは決して、あの場所では感じ得なかった感情だ。私は飽くまで大勢に内包される個人に過ぎなかったし、代替可能な人材でしかなかった。常に死んだように生きていて、身体と頭は一直線上にはなかった。頭の中で考えることはいつも、私の身体の欲求とは食い違っていた。あの灰色の空気と自己主張の強いビル群の中で、私はいつも酸欠に喘いでいたのだ。

きっと、これでいいのだ。右脚をゆっくりと踏み出す。脳と体が繋がったばかりで、上手く足を進められない。慎重に、左脚を前へ。そうだ、人はこうやって歩くのだった。私は歩き出す。落ちている枝を踏みつけ、苔むした倒木を乗り越えて、私は森の中をあてもなく彷徨う。途中、歩きづらかったのでパンプスを脱いだが、細かい枝が足裏に刺さって痛かったので、我慢して履き直した。いつか、靴なしでここを歩ける時が来るのだろうか。

本当は、ここに留まって助けを乞うべきなのだろう。だが、現実的な問題として、気が付いた時には携帯の入ったバッグは無くなっていたし、そもそも電波が届くような環境でもなさそうだった。そして精神的な理由として……実に自己中心的な理由としては、私がここから引き離されるのが、嫌だということもあった。もう少しだけ、森にいたかったのだ。

枝は乾いた音を立てて容易く折れ、遠くの方で陽気なフルートにも似た鳥の声が響いた。私は歩く。ワイシャツに汗が滲み、タイトスカートは私の脚の運動を阻害する。すぐにジャケットとスカートをその場で脱ぎ、手近な木の枝へと引っ掛けておく。少し運動して火照ってはいるが、気温自体はそれほど高くもなく、低くもないように思えた。今は夏だろうか? それとも冬? いずれにせよ、私にはもう、興味のないことだった。

下半身のストッキングを晒したまま、私は歩き続ける。どうせ、誰も見ていないのだ。関係ないだろう。

信じていた。彼だけが唯一私の拠り所で、他には何もないように思われた。何だってした。金も貢いだし、求められれば身体だって差し出した。ただ、側にいてほしかった。それだけだった。ああ、それなのにどうして! 彼は私を裏切った。面と向かって別れ話を切り出された時、私はどうしようもなく深く暗い絶望と、私自身に潜む醜悪な本性とを自覚した。そうして、そんな自分に失望して、何もかもが空虚に思えた時。


ヒューズが飛んだ。バチンと、自分の中で。


私が三抱えしても足りないような、大きな幹を持った大樹だった。その枝葉末節は森全体に行き渡るようにして悠々と広がっており、太陽の光を受けて地面に養分を流し込んでいるようにも思えた。森全体を覆うサンシェード。穴の空いたストッキングと、泥と汗に塗れたワイシャツの私は、そんな森の主に面会を果たしたのだ。

幹の周囲は、そこだけ草木が伐採されたかのようにポッカリと空いていて、さながら小さな広場のようになっていた。日光が届かないために、他の植物が成長できないのだろう、多分。主の幹に背をもたせて座り、うっすらと瞼を空ける。

静寂が聞こえるとは、このことなのだろうか。雑多な音に満ちていた森とは違い、この周辺だけは、何も聞こえない。空気が流れる音も、虫の声も。森の中にぽっかりと空いた空間だけが現実から切り離されて、行く宛もなくふらふらと彷徨っているように見える。

宇宙、と、私は突飛な思考をまとめ上げる。宇宙のような真空の中は、何も聞こえないに違いない。そもそも、音という概念自体が、私たち特有のものだとしたならば……。

ぼんやりと霞む視界を閉じて、無音の世界に自分を浸す。ゆっくりと私の輪郭がぼやけていって、自分は自分自身の中に呑み込まれる。背中に当たる、ささくれた木片の触感も、剥き出しの脚を這う蟻の、こそばゆい感触も、柔らかい日差しの心地良さも、全てが消えていく。私はもう少しここにいたいと思ったけれど、それは不可能だと知り、諦めて感覚を手放していく。

ひどく、喉が渇いた。私は最後に、そんな詰まらないことを考えていた。

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