夜は月の女王に跪いた

「なんでお前は生まれてきたの?」

小さい頃、僕は母にそう言われた。
僕は黙っている。何を言えばいいのか分からなかった。

「何とか言いなさいよ。黙ってないでさあ」

知っている。ここで僕が何か言っても母はもっと怒るだけ。何も変わらない。解決しない。だから僕は黙る。じっと、嵐が過ぎるのを待ちながら。

「あんた、自我がないの? 他人に自慢できることはないの?」 

そういう話の飛躍を指摘することもできない。それは母にとって答えではないから。母も辛いんだ。僕を養うために心を殺して働いている。だから、愚痴を聞くぐらいなんてことはない。

そう、これは愚痴なんだ。

「お前の父親もそうだった。何も言わずに、私に何も言わなかった。何も言わず、何もせず、何もかもに無関心だった」

母はそう言って話を切り、相槌を打つように僕の頭を叩く。

「お前は違うでしょう? 私を裏切らないでしょう? 愛しているよ。愛しているから…」

お願いだから私を困らせないで、そう言って母は泣いていた。僕はやっぱりなにも言えずに立ちすくむ。母はそんな僕をもう一度叩き、「出ていけ!」と言った。「姿を見せるな!いらいらする…。あぁ、本当に。なんでこんな子供になったの…」

僕は出ていく。思考を麻痺させながら、やたらと青い空をただ見つめながら。

そんな幼少期を送っていた。

いつの間にか成人して、大人になったけど心は子供のままだった。知識はついたけど、大事なところは何も成長してなかったように思う。

やりたいことも見付けられなかった僕は日本語教師になることにした。国語の点数だけはよかったのと、誰かのためになりたかったからだ。

それで勉強して、いざ日本語教師になってみると待っていたのは否定の言葉だった。
そう、僕は仕事ができなかったのだ。簡単な教案を作るのに何時間もかかったし、人前で話すのが苦手だった。人と話すのは好きだったが、論理的に話を展開することができなかった。

「君は今まで何を学んできたのですか?」

OJTで僕の指導をしていた先輩にそういわれ、笑うしかなかった。その通りだ。僕は勉強していても、考えていなかったのだろう。受け身で知識を接種して、それで問題ないと思っていた。それで大丈夫なんだと、思い込んでいた。

教壇にたって数ヶ月、僕の教師としての評判はよくない。僕の教案はわかりづらく、要点が分からない。先輩も呆れていた。
「お前、脳みその一部をお母さんの中に置いてきたんじゃないか?」
僕は笑う。「そうかもしれないですね」もう何も考えられなかった。

僕は無能だ。
計画性もなく、論理的思考力もない。根性もなければ、力もない。何か言われても笑って嵐が過ぎるのを待つだけ。
僕はどうして生まれてきたんだろう。何を為すために生を受けたのだろう。無力感と劣等感に苛まれて、どうにかなりそうだった。実際もう狂う条件は揃っていたと思う。でも狂いかたがわからなかった。理性をの手放し方なんて分からない。
愛とはなんだ。母さんは僕に愛をくれているか。死んだ父さんはどうか。あの人はすべてに無関心な、ロボットのようだった。僕は誰かの役にたったのか。たてるのか。

そんなことを通勤電車の中で考えていた。
そして死んだ。

死因は電車混雑による圧死だ。当時、東京メトロ有楽町線では混雑がひどく怪我人が何人も出ていた。そして不幸な第一人者になったわけだ。
僕は誰かの足に躓いて、混雑した社内に突っ伏した。当然人が一人横たわるようなスペースはない。その空間を埋めるように、人の雪崩が僕の身体に襲いかかる。何十人もの人が将棋倒しになり、その最下層に僕がいた。
死んだときの僕には無数の肘が突き刺さっていた。スマホを見るために折り畳んだり、新聞をみたり、隣人の圧力から防御したり、そんな風に突っ張られていた沢山の肘が、ちょうど僕を中心に突き刺さっていた。

僕の死に様なんて興味ないと思うし、死で始まる物語が総じて陳腐だというのは同意するけどまあ待って欲しい。死んでわかるけど、やはりこれは誰にでも訪れることで、しかも予期できるものではないんだ。こんなこと、誰かに話すしかないだろう?
やっぱり僕にとってはとても重大でセンセーショナルな出来事だったんだよ。あんたは飽き飽きしているかもしれないけどさ。

まあ本当は死んでないけど。そう簡単に死ぬわけないけど。
でも僕が死んだところで誰にも分からないだろう? 多かれ少なかれ、電車に乗っている人はみんなそんなことを考えているよ。

僕は今有楽町で仕事をしている。
内容はネットワーク機械を設置する人を支援することだ。たくさん電話をとって、彼らの作業を支援する。現場で起きる問題を切り分けて、しかるべき人に、設計とか営業とかお客さんに(エンドユーザじゃない)質問して、問題に対処する。

「アンシャルフィアトルテさん」と佐藤さんが呼ぶ。「ここの作業ログ間違っているよ。」
「あ、申し訳ありません。」
佐藤さんはこの業務でも古株だ。みんなから頼りにされている。
「そろそろ3ヶ月経つし、慣れてもらわないと」
佐藤さんは注意する。すみません、とぼくは謝る。
「はは。まあまあ」席の向かい側の近藤さんが手を振る。「まあアンシャルフィアトルテさんはよくやってますよ。」
彼は仕事がよくできる。僕より年下だけど。いつも思うんだけど、年下ってみんな仕事がよくできるんじゃないかな。
「それならいいけど」頑張ってください、六月から忙しくなりますから、佐藤さんは席に戻って仕事を始める。

ちゃきちゃき。
ちゃきちゃき。

そんな音が聞こえそうだ。仕事を早く終わらせる人の音。

すみません、すみません。
あっあっ。であれば、であれば。

これは、僕の音。

電車に乗る。残業は最近平均で二時間くらいしてる。世の中の人はもっとしているかもしれないけど、僕にとってはくるしい。個人差あるから。冷凍の唐揚げを何秒レンチンするのかと同じ。

帰りの電車でも肘が突き刺さる。色んな人の尖ったものが突き刺さる。尖ったものだらけだ。電車の中ではみんないつもより尖る。
僕は周りの人に迷惑かけないように、ちゃんと丸めてある。いつも磨いて、誰にも突き刺さらないようにしてある。これぐらい社会人して当然だ。みんな知らないだろうけど。

帰りにカフェに入る。本を読むために。肘の無い世界と言う名前だ。アーヴィングが書いたみたいな名前。三省堂で買った。

僕の隣にレザージャケットを来た男が座った。「失礼」その男は狭い机と机の間を滑り込むようにして座った。
僕は本を閉じる。机の上には本に挟まれていた村上春樹の広告が置いてある。なんか見られたくないで裏返しにした。

僕は煙草に火をつける。タールの強いやつですぐに酔ってしまう。でも本当は吸ってない。僕が煙草を本当に吸ったかなんて誰にわかる? 誰も知らないんだ、僕のことは。だから物事をどんな風に語っても僕の自由なんだ。

母からラインが来た。
「今日はご飯家で食べるの? 今日は簡単だからすぐできるよ」
僕は煙草を燻らせて返事をする。「すぐ帰るよ。ご飯楽しみ」
きっと母は今気分がいいのだろう。それは世界平和の第一歩だ。

だから、なんだか少しだけ尖ったことをしたくなって、読んでいる本に煙草を押し当てた。世界平和に抵抗するために。
本は焦げ付くだけで、全然燃えない。期待外れだけど、すこし安堵した。
上を向いて煙草を飲む。煙が目に染みるから。僕は誰よりも煙草を吸うのが下手だから。
会計を済ませようとしたときに気付いたまだ本を読んでなかった。一ページ目を読む。
「なんでお前は生まれてきたの?」
「肘の無い世界で暮らすためよ」

タールで痛む頭と肘の無い世界について考えていたら帰りのバスで終点まで行ってしまい、僕は月光を見ながら歩いて帰った。

僕がAnyone cannot play guiter. But, someone  write novel.と口ずさんでいると、月光から天使が舞い降りてメッセージをくれる。

「お疲れ様です」と天使は言った。
「あなたは、自分がつくりだしたわけでもないこの世界に反発しながら、頑張って生きてきました。人類の尖りすぎた肘に耐え、その一方で自分の肘を丸くして他者に配慮しました。あなたは人間不振を抱えながらも人類に対し優しさをもって接しました
「ありがとうございます」
あと300メートルで家だった。夜は静かで月の女王に跪いている。
「よって肘の無い世界に転生することを許可します」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「転生先の名前はアンシャルフィアトルテです」
「ありがとうございます。陛下と読んでも宜しいでしょうか」
「構いません」
「ありがとうございます、陛下」
僕は天使の陛下と並んで歩く。陛下は僕の歩幅に合わせて歩いてくれる。肘も当たらない。でも陛下の肘ならあたっていい。もうすぐ家だ。
「時に陛下」
「なんでしょうか」
「陛下は死んだ彼女にそっくりなのですが、何故でしょうか」
「それはあなたに配慮しているからです」
「ありがとうございます。でもすこし苦しいかもしれません」
「疲れているだけですよ」
「そうかもしれません」
あと10メートルで家だ。飼い犬の鳴き声が聞こえるから。母の声が聞こえる。あと死んだ父の声も聞こえる。
「あっ」
「なんでしょう陛下」
「あなたは本に煙草を押し当てていますね」
「あっ、そうです」
「であれば転生は中止です」
「あっ」
天使の陛下は消えた。家についた。玄関を開ける。誰もいなかった。ご飯ができていた。レンチンしてあった。飼い犬が僕の足にすり寄る。早く散歩に連れていって下さいとわんわん吠える。そうだよな、お前に肘なんてないもんな。


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