「雨はキライよ。髪が濡れるもの」

それはどこか、大手広告代理店が作成したキャッチフレーズのように、僕の胸中へと流れ込んできた。雨はキライよ、髪が濡れるもの。新しいシャンプーの宣伝みたいだ。気の利いた女優が、気の利いた文句を、気の利いたテレビカメラに向かって話しかける。果たしてそこに、視聴者はいるのだろうか。

「あなたと私は、本質的には異なる生き物なの」

放課後の教室。空を覆う分厚い雨雲のせいか、はたまた彼女の持つ独特な雰囲気のせいか、その空気はどこか淀んだように暗い。世界中が呼吸を止め、息を殺し、静寂に帰依しようとしている。そしてそんな中、彼女は悠々と弁舌を振るう。タチの悪い独裁者のように。

「私は皇妃なの、ブルジョアなの。そして、あなたは名も無いプロレタリアート」

閑散とした教室。教壇で踊るように語らう彼女に、僕は本音を投げる。黒板を正面にして、右下隅の席。ゴミ箱に一番近い場所から。

「KGBにしょっ引かれてしまえ」

「ああ、怖い怖い。銃も革命も血も、みんな大嫌い」

そう言って、彼女はペロリと舌を出した。外では、叩きつけるような雨が窓を鳴らしていた。嵐だろう。今日はしばらく帰れなさそうだ。何せ、この皇妃様と名無しの労働者は、どちらも傘を忘れてしまったのだから。

彼女は、クラスでは「浮いた」存在だった。それもそうだ。この尊大でポエティックな態度を見れば、誰もがその理由を疑わなかった。そして僕もまた、この皇妃様からは、常日頃から十全な距離を空けてきた。それがこのような形で縮まってしまうのは。
「誠に遺憾である? 」
「僕の心情を勝手に読まないでほしいんだけど」
「だって分かりやすいんだもの、あなたの気持ち。新品に交換される古いマンホールみたいな顔してたわよ」
「マンホールに顔があるの? 」
「メタフォリカルな意味合いとして」
相変わらず、言っていることが支離滅裂だ。メタフォリカル……つまり比喩的な意味で、マンホールに顔があるのか? いや、彼女は僕を弄んでいるだけだ。考えるだけ無駄だろう。
「でも万が一」
彼女が口を開く。
「今この状況に、何らかのメタファーが加わっているとしたら? 」
彼女は教壇の上で跳ねた。制服のスカートが揺れ、健康的な一対の脚が伸縮する。
僕は考える。今この状況にメタファーが加わっている? 僕の拙い脳みそでは、彼女の言っていることの真意を汲み取るのは難しい。
「ここは現実だ。小説やドラマじゃない」
「うふふ」
彼女は笑って、僕の座る席へと近付く。本音を言うなら、あまり近寄って欲しくはなかった。
「ねえ、近づいてほしくないって顔してる」
「そりゃそうだ。僕は君が嫌いだから」
「どうして? どうしてあなたは私が嫌いなの? 」
何故? ……僕はその答えを、即座に提示することができなかった。無為な時間だけが、漂う雲のように流れていく。雨脚は依然強いままで、窓のフレームがガタガタと不吉な音を立てている。
「……結局解答は出ないまま。憐れなブルジョアは、市民のために血を流す」
彼女はそんなことを口ずさみながら、僕の頬へと触れた。それは細く、か弱い白枝ではあったが、確かに脈々とした熱を持った、一人の人間の手だった。
「気安く触らないでくれないか」
「どうして? どうして私はあなたに触れちゃいけないの? 」
僕は以前、倫理の授業で習った逸話を思い出した。アポロンの託宣、ソクラテスの「無知の知」の話。彼女の手によって、僕自身の無知が曝け出されていくような感覚。ああ、なるほど。

「怖いのかもしれない」
「怖い? 」
彼女は意外そうに言い放って、続けた。
「怖いって? 」
「つまり、君の手によって、みんな『己自身の秘められた何か』が露呈してしまうのが、怖いんだよ。君自体が写し鏡のようで、そしてそれを見た何者かは、自分の中にあるそれを否応無しに認知してしまう」
なら、君も僕も空っぽだ、と思う。なるほど、だからメタファーなのか。
「怖い。怖い、ねえ」
彼女は可笑しそうに笑うと、僕の頬から手を離し、そして覚束ない足取りのまま、教室の外へと歩み出た。木製の扉が開けられ、そして閉められる。それらは極限まで洗練された、一連の動作のように思われた。
取り残された僕は机に頬杖を突き、窓の外を眺めていた。雨脚は依然として強く、未だ止む気配は見えない。黒板の上の壁掛け時計は、午後5時27分を示している。
僕と彼女はメタファーなのだ。そう考えながら、僕は足早に傘を差して帰った他のクラスメイトのことを思う。彼らは、無事家に辿り着けたのだろうか。嵐に呑まれていなければいいのだけれど。

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