プロローグ 心の陰影

初めて抱いた女性と過ごすまどろみほど、甘美な瞬間はないだろう。

 目の前の美しい女性がなんの警戒心も向けずに、無防備な裸体を晒している。

 その姿を見ていると、錯覚するのだ。自分がこの世界におけるただ一人の主人公で、この世は自分の為にあるのだと。

 

 人は、言うだろう。誰しもが、それぞれの人生における主人公で、誰もが尊い存在なのだと。だがーー

 ーーいや、違うな。その考えは、間違っている。

 ボクはテーブルに置かれた飲みかけのグラスに手を掛ける。ベットの後ろにいる「白雪姫」を起こさないよう気を付けながら。

 この世界は、平等ではない。人生においてどれだけ成功を収める事が出来るか、自分の思い通りの人生を送る事が出来るか。 

「フッ、全く…‥イヤな世界だ」

 グラスに入っていたジンがすっかり温くなっていたせいだろうか。口に入れた時の苦みが、いつもより強く感じる。

 敗者がいるから、勝者がいる。不幸な人間がいるから、自分が幸福なのだと実感できる。どれだけ取り繕ったとしても、それがこのどうしようもない世界の真実なのだ。

 

 ボクはーーフィクションの世界が嫌いだ。小説も映画もドラマもアニメも漫画も舞台も、全部大嫌いだ。

 キレイごとばかり、描いているから。

 友情、絆、家族愛、純愛、博愛。そんな道徳ばかりを描いて、説教がましく押し付けてくるのには心底あきれる。

 加えて、お話の世界の主人公はいつだって特別なのだ。優れた才能を持っていて、現実ではありえない偶然の出会いがあって、最後には絶対に成功を収める

 だがーー見落としてはならない事が一つある。

 そんな主役の周りには沢山の、主人公になれなかった凡人達が蠢いている、ということだ

 その世界で生きている限り、誰だって活躍したい、成功したいーーと思うはずだ。

 しかし、そんな凡人の思いには目もくれず、お話のスポットライトは主役の方ばかりを飽きもせずに照らし続ける。

 その事に気づいた時、ボクはフィクションの世界からすっかり足を洗ったのだ。

 勿論、ボクも昔からそんな風にひねくれていた訳ではない。初めて劇場へ見に行った魔法使いの少年の映画には、その日眠れなくなるほど興奮したものだ。

 それでもやっぱり彼は特別な力を持った少年で、彼の周りにいる他の魔法使いなどはただの引き立て役に過ぎないのだ。

 ーー反吐がでる。

 そんな風に物語の世界を嫌うようになったのはいつだったのだろう。

 それは多分、ボクがこのどうしようもなく冷たい世界に絶望した時だったのかもしれない。

 今のまま生きていたのでは、自分はただの引き立て役で、それこそーー脇役Aに過ぎないのだと思い知らされた、あの夏ーー

 願ったとしてもやり直せるはずのないあの時の事が、悪夢となって未だにボクの心をジリジリと絞め続ける

 


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