仰向けの身体を起こして、肘をつき、手に頭を乗せて寝そべったまま壁にかかった礼服を見た。傍らの招待状に触れようとして留まる。

それがあまりにも正しさに溢れているので、肌を虫が這い上がっていくような寒気と身が張り裂けそうなほど強い感情の奔流を感じる。


怒りからくるものなのか、絶望なのか悲しみなのか憎しみなのか、あるいはそれら全部を含めた全く新しい感情なのかぼくにはよく分からない。


わからないものに流されそうになるとき、これまではいつもそばにあなたがいた。

だから知らないものに手を引かれ振り回されても恐怖や怒りで消耗することもなかった。


あなたがいればそこはどこでも森の中のピクニックになった。

でももうあなたはいない。

知らなかったものが大きな塊となってぼくに圧し掛かり、今更またあなたの不在が際立ってくる。


いなくなると、共に過ごした時間というまとまったものがとてつもなく大きなもののように感じるらしい。手に触れることも目にすることもできないのに、共有が専有になった途端そのあまりの重さに絶句する。


あなたがいないということで生まれる感情すべてに逐一あてはめるべき言葉を持たないと、重みはますます圧し掛かり、やがてそれは後悔という二つの文字を思い起こさせた。重くて重くて考えがちっともまとまらない。


崩れていくのではなく、意思が追いつかないまま崩されていく。だから後悔が生まれる。悔恨が生まれる。今ではあの日々を後悔している。そしてそれをあなたの目の前で思い切りぶつけてやりたいなどと思うようになってしまっている。


 大体、何でこんなものを送ってきたのだろうか。 “私たち結婚します”? 馬鹿じゃないのか。ああ、もう、どうでもいい。

勝手に結婚でも離婚でもしてればいい。入れたり出したり産んだり逃げたり縋ったりして勝手に何者にでもなってろよ。考えたくもない。


切り裂くように部屋着のスウェットパンツの中に手を突き入れ、下着の上から自分の中心に触れた。生地の上からでも手のひんやりとした温度を感じる。

それがあなたのものに似ているのでわずかに怯む。


それでもやめずに中指の腹で慰めるように柔くなぞって強行してみる。

だがちっとも動かない。思わず力が入る。小さな引っかき傷を作ったときのような痛みが走って虚しさが圧倒する。


安らぎや気持ちよさの最も遠いところで無様な身体を曝したままバラバラだということを感じている。バラバラなのに、ひとつひとつのパーツがあなたを憎み、だがあなたの触り方を求めている。そういう虚しさが充満している。


 しかしぼくは結局出席のところに几帳面な○を書き、あなたからの一言などなかったにも関わらずご丁寧に「おめでとうございます」と一筆添えて出した。

連絡はやはりなかった。行ってどうするのか。声でも掛けるのか。

どんな顔をして何を言う?


何も分からないまま、だがぼくは返信はがきを出し礼服まで買ってきた。

友達と呼べる人間もほぼおらず、実家とも断絶状態が続くぼくがそもそも礼服なんて持っているわけがない。


そんなことあなたが一番知っているだろうに、本当にいつも何も分かろうとしないのだな、などとしつこく詰り続けることであらゆる決断から逃げ、ほとんど意識もないままそれを部屋の鴨居に掛けるまでをやり遂げたのだった。


 封筒に印字された美しい毛筆フォントで書かれた名前を見ながら、あの野郎、きっとぼくに送ったことなど端から分かってないんだと思う。


とかく面倒臭がりのあなたのことだから、ただ適当にあ行から順番に出力し、よく確かめもしないで出したのじゃないか。


ぼくの名前は「え」から始まる何とも中途半端で印象薄く、ちょうど見落とすような位置にあるから、うっかり送ってきやがったんだろう。


そう考えると「すまんすまん、うっかり間違えたわ」なんて言うあなたの声がすぐそばで、あっさりと聞こえる気がした。


 突然ガタガタいう窓にドキリとする。思わずカーテンの隙間の向こう側に意識がいってしまう。鍵は開いている。いつだって開いている。

でも何も起きない。それが開くことも影が映ることさえもない。


まだ期待があるのか。漏れた自嘲があまりにも惨めなので喉が詰まったようになる。反射的に喉に伸びた湿った手がその柔らかい皮膚に触れると異物感を強く感じた。それがあまりにも懐かしいので思わず手の力が強まってしまう。


頸動脈に指先が触れると頭の中でスーパーボールがぶつかるみたいに拍動が繰り返された。でもこの波動がぼくを超えていくことはもうない。この身体の内側で誰にも知られず繰り返されて、そうしてぼくだけがずっと痺れているのだ。


 以前まだ世界と自分の、あるいは朝と夜の境目もなく、また無力さに嘆くことも救済をも欲さなかった頃、あなたに触れるたびぼくは素直に興奮し悦びの渦の中で溺れた。どこまでも純粋でまっしろだったのだ。


息を吸って吐き、気持ちのよいことに手を伸ばし衝撃を浴びることに恥じることもなかった。その頃のぼくは、ちょうどあなたに出会った頃そうだったようにこの身体の限界についてなど頭の片隅にも上らなかったのだ。


あなたといた間、ぼくはまるで夏休みの只中の子供だった。

太陽は近く風はただの風で、次の日が来ることに無防備に浮かれていた。

それをあなたに悟られないようにすることで毎日大変だったほどだ。

それなのに、いつから一人で悦びを抱えることが耐えることに直結するようになったのだろう。


 招待状に印字された明け透けな番号に電話を掛ける気にはならなかった。

そんな呆気なく単純な方法で、あなたに再び触れたくなかった。

大体これまでだって簡単にあなたに触れたことはないし、そんな距離感など終わりまでぼくらの間には生まれなかった。


ぼくらの間にあったのは、軽口を叩くほど互いの存在が無視できないものになるような関係だった。踏み込みすぎれば互いを殺し合ってしまう予感さえあった。

分かっていたのだ。それなのに、ぼくらはやめられなかった。


やめてもやめなくても悪くなるなら、軽口を叩きあってギリギリのところで均衡を保つことを選んだのだ。でも時折あなたは試すように、あるいはあえて壊そうと自棄になるようにぶつかってきた。


「淋しいならずっと一緒にいてやるよ」「お前のピンチにはいつでも一番に駆けつけるよ」「ああ、あんたと居るときが一番楽しい」――不器用でぶっきらぼうなあなたの残酷さがまだぼくを悦ばせる。


ぶつけようのないその悦びに、周囲の塵も燃やさんばかりに強い憎しみが湧く。

自分で触れるのさえ躊躇するほどのそれが、まだ燃え足りないと言わんばかりにぐんぐん温度をあげるのでぼくはどんどんくらくらしていく。


 外で何かが何かにぶつかるよく分からない音がまだ鳴っていた。

ざわめきは明け方までやまなかった。熱と雑音と虚しさの中、あなたに会いたくて仕方がなかった。


会ったところでやっぱりあなたの裏切りを許せないのは分かっているのに。



(続く)

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