Chapter1 馬鹿の一本坂




     息を吐くように死ねたら、どんなに素敵だろう




1

   チャルの胸が、ぎゅっと背中に押し当てられる感触が伝わってきた。

   実際、俺とチャルの胸のあいだには、俺の着ていたTシャツに白の開襟シャツ、それにチャルが着ていたブラウスと……もちろん、ブラジャーだってあったけれど、そのときの感覚的にはほんとうに、ティッシュ一枚だって挟めないくらい俺たちはぴたりとくっついていたんだ。

   自転車のブレーキを目一杯握ったまま、左足だけを地面に着けて、俺は目の前に伸びた馬鹿みたいに一直線な坂道を睨みつけた。

   …チャルは今、どんな顔をしているんだろう?


                     *


   自転車で出せる一番の速度を体験してみたいの。

   いつもの道を歩いているときに突然、チャルが言った。

「やってみたことある?」

   ……どうして肯いてしまったのだろう。

「ほんとう?」チャルが目を輝かせながら訊いてきた。少し下がった目尻、その右側についたほくろが俺は大好きだった。

「ねえ、どこで?」

「ええと、どこだったかな……あ・あそこ…あの、大和町の馬鹿の一本坂。…そう……そう! あの一本坂をノーブレーキでおりたらものすごいスピードが出たって、タツキが」

「タツキ君の話?」

   あ「いや、タツキと一緒に行ったときの話って意味ね。あんまりはしゃぐもんだからさあいつ。俺はぜんぜん余裕だったんだけど」

   ほとんど本当だった……いや、ほとんど嘘か。

   実際は、豆つぶみたいに小さくなっても全然視界からいなくならないタツキを、俺は坂の頂上につったったままただ眺めていただけだった。でもものすごいスピードが出ていたのは本当だし、タツキが興奮してはしゃいでいたのも本当だ。それに俺が余裕だったのだって、ほんとうといえば本当のことだ。なんせ俺はただ見ていただけだったんだから。

「今からもう一度やってみない?」

   チャルがいきなり目の前に回りこんできたせいで、俺は押していた自転車のブレーキを慌てて握らなくちゃならなかった。

「今から?」

   うん。

「坂をくだるの?」

   うん。

「俺が?」

   ううん。「ふたりで」

   ああ、ふたりでね……ム「ちょっと待って。どういう意味?」

「ふたりで一緒にって意味」

   まさか「二人乗り?」

   うん。「無理?」

   チャルが大きな瞳でまっすぐ俺を見つめてきた。少し下がった目尻、その右側に何かのしるしみたいについているほくろが俺は大好きなのだ。さっきも言ったけれど。

「お願い」

    ……


                     *


   山頂から一直線に、中腹までずうっと続いた長いながい下り坂。

   こうしてまじまじ見ていると、いつのまにかすべり出してそのまま視界の先に浮かんでいる雲にすぽっとつっこんでしまうんじゃないかなんて思ってしまうほど、馬鹿みたいにまっすぐな坂道だった。

   ……スキー・ジャンパーが見てる景色ってこんな感じなのかな…

   夏の太陽にしこたま照りつけられたアスファルトから、陽炎が立ちのぼって、俺たちの行く手をもやもやと揺らめかしていた。

   ……本当にただの一本道だよな?

   道傍の木々からみっしりと聞こえてくる蝉の鳴き声が、頭の中で響きまくって不気味な奥行きをつくりだす。たちのわるいサラウンド。まるで頭のすぐ上でとてつもなく大きな蝉がわめき散らしているみたいだった。

   今、目の前に見えている道は、ほんとうに本物なのだろうか?

   揺らめいて見えるあれは陽炎なんかじゃなく、じつは蜃気楼だったりして……で……ほんとうの行く手には……俺たちみたいな馬鹿で無謀な若者なんて軽々と飲み込んでしまうような……大きな大きな穴があいていて……

   俺は強く頭をふった。そしてふりすぎてくらくらとした。

   だいじょうぶ、きちんとアスファルトで舗装された道だ。どうってことない。道路のまん中に大きな穴なんかが開いてるわけないじゃないか。日本だぞここは。両側には草木がただ茂っているだけ。脇道もないから車が急に飛び出してくることなんかもないって。ただ馬鹿みたいに一直線だってだけさ。な、しっかりしろ、でかい蝉なんていやしない。おっかなくてそんな気がしてるだけなんだ。揺れる柳が女に見えるとか、すきま風がすすり泣きにきこえるとかってのと同じ、ただの錯覚だ……

   後輪のブレーキを目一杯握って、右足でペダルを強く踏んでみた。オーケー、効いてる。まあ大丈夫だろう……たぶん。

「…準備は良いか?」

   前を向いたまま、俺はチャルに訊ねた。返事が聞こえる代わりに、チャルの胸が背中にぎゅっと押し当てられる感触が伝わってきた。

   よし、俺たちのあいだにはたとえティッシュ一枚だってはさみこむ余地はない。つまり俺たちはひとつ……てことは……これはもう二人乗りじゃなくて、ほとんどひとりみたいなもんだ。……ほら、たいしたことじゃない。たいしたことじゃないじゃない。……ム?……たいしたことじゃない・じゃない? ……たいしたこと・あるってこと?……え……もしかして俺……

   いま、とんでもないことしようとしてる?

「だいすきだよ」

   ふいに聞こえた。…大好きだよって。チャル? もちろん俺に言ったんだよな? ……うれしい…… 好きだって…はじめて言われた……どうしよう……すごくうれしい。

   よし、腹をくくれ俺。たかが坂道を自転車でくだるだけじゃないか。雨上がりのせいで坂の途中にちょっとした陽炎があるだけだ。こわいことなんて何もありゃしない。

   対向車はいない。よし、

「行くぞ」

   指の感覚がなくなるほど強く握りしめていたブレーキレバーをはなすと、俺は右足に力をこめた。ペダルは異常に重く、そのせいで俺はペダルを踏みつぶすみたいにして右足に全体重をかけなくちゃならなかった。自転車がゆっくりと前進する。……もうすこし、もうすこしすすめば、あとは車輪が勝手に坂を転がってくれるだろう……そうすれば、もう、あとはすべりおりるだけだ……

   ペダルを踏みぬいて、俺はサドルに腰をおろした。前をにらんで背筋をのばす。チャルは俺の右脇から腕をまわし、片手で俺の体にしがみついているみたいだった。

   片手?……だいじょうぶか?……まあでも今のところはちゃんとくっついているのだから、きっとだいじょうぶなんだろう……それよりも前に集中しなくちゃ……

「しっかりつかまってろよ」

   チャルに言ったのか、それとも自分に言ったのかわからなかった。自転車はみるみるスピードを増し、向い風をもろに受けた俺の開襟シャツがばさばさと大きな音を立ててなびいた。ボタンを留めておけば良かった。そう思ったとき、俺はふいにタツキのことを思いだ。

   あの日、この坂をすべりおりながら全力でペダルを漕いだタツキは、頂上からブレーキを効かせながらゆるゆるとおりた俺に向って得意げにこう言った。

   漕がなきゃフルスピードとは言えないからな。

   ……どうだ、みやがれ。俺なんて二人乗りだぜ。

   俺は身をかがめてペダルを漕いだ。下り坂でペダルを漕ぐだなんて、生まれてはじめての経験だった。さっきあれほど重かったペダルは、まるで何かの冗談みたいにすかすかとかるく回った。その感触で俺は、自転車がとんでもないスピードで坂を下っているのだということを実感した。

   もう自力で出せるスピードなんてとっくに超えているんだ。

   ほんのついさっき感じたいきりは一瞬でどこかへと消し飛んでいた。腹の底がぞわあと冷えて、体ががちがちにこわばった。

   …………うで……わき……くび……ふともも…………

   自分がいったいどこに力を入れているのかさえ、もうわからなかった。すううう、と上に、頭が吸いとらそうな心地がした。

   怖い。

   こわい。

   こ わ い。

   こ   わ   い。

   こ     わ     い。


   頭の中で恐怖と蝉の鳴き声が暴れまくっていた。

   ……蝉?

   まさか、ずっと上を追いてきているのか?


   … チ  … ャ  だ ぁ  ょ …  ー … … …  ー …

              ー  ー … ィ  ー  ゥ …  …  か  …

                         … ル 。  … じ  ブ …  ー ぁ ー  ?


   力の限りに叫んだつもりだったのに、俺の言葉は、まるで正面からぶち当たってくる風に一文字ずつつまみ飛ばされるみたいにして、口からぼろぼろとこぼれていった。口に、まぶたに、鼻に、耳に、風が吹きこんであばれまくった。体じゅうにぶつかる風に、感覚がすべてもっていかれて、背中に貼りついているはずのチャルの感触がまるでわからなくなっていた。


ち   ゃ   る   は   、        ぶ     じ     だ     ろ     う     か    ?

 

       …  あ  あ                  こ                              あ    あ …

                 こ    わ      い                       こ                      わ   い

  か    ぜ         が    、                  …   め          に   、

                 わ                     い              こ                わ       い

  … ぶ   つ   か っ    て 、                  こ     れ   い    じ   ょ   う …

                         こ                 わ                           い

  あ   け   て     … い   ら    れ       こ  わ       い                … な い

                こ                           わ                           い

                    痛!                            … ?

   … 赤                           ィ                              ?


「つめたいてに、あいたい?」


      ……


         ……


            ……あ あ、


                        あ  い  た  い  な


©Daichi Ishii Office, LLC.