僕は立ち漕ぎで、成田街道を自転車で突っ走った。


 車が迷惑そうに、僕の横を大げさに避け、追い越して行く。

 排気ガスを吹きかけられながら、それでも狭い車道をひた走る。


 佐藤美由紀の放った言葉が、しぶとい手ぐすみたいに僕の身体に絡みつき、心にまで食い込んで行く気がした。

 心の中の大事な物をズタズタにされる前に、その手ぐすを、ぶっちぎてしまいたい。

 そう思って、必死になってペダルを漕ぐ。

 けど結局、何も振り切れないまま、加速した分、あっという間に家に着いただけだった。


 僕はオデッセイの無い、空っぽの駐車場に自転車を停め、白タオルを乱暴に頭から外すと、再び噴き出る首の汗を拭いながら玄関に入った。

 

 蒸し暑く籠った空気。

 いつもならホッとするはずの自分の家の匂いに、どういう訳かうんざりする。


 母さんはまだ帰宅していない。

 今日はパートの日だ。

 帰ってくる前にシャワーを浴びて、部屋に入ってしまおうと思った。

 そういえばここ数日、父さんと顔を合わせていない。


 頭の中の机の上に、保留のままの本が一気に山積みになってしまった気がする。

 読みたい物だけではない。

 読みたくない物だって否応もなく足されていく。

 でも、いつかは目を通して、きちんと本棚に整理しなくちゃならない。



 ……寄り道なんて、しなけりゃ良かった。



 カバンを廊下に放り出し、その上に、雑誌の入った袋を振り上げ、叩きつけようとした。


 けど止めた。


 放ったカバンを再び拾い、階段の2段目にそれらを並べてそっと置いた。


 そしてそのまま浴室に行って、着ていたシャツを脱衣籠に入れ、ふと横を見ると、洗面所の鏡に映る、上半身裸の男と目が合った。



 は?



 僕は普段、ほとんど鏡という物を意識していない。

 浪人してからは特に。

 髪を形良く整えようという気も無いし、歯を磨く時も、顔を洗った後も、ただ漠然と鏡の前に立っているだけで、顔の細かいチェックなんてわざわざしない。

 だから今、久しぶりにそこに映し出された男。

 つまり自分の姿を見て、ひどく違和感を感じた。



 これは、僕か……?



 目付きが悪い。


 それはまあ、今に始まった事では無いのだけど、、、

 髪だ。

 髪が伸びた。

 というか伸びすぎだ。

 耳が完全に隠れて、襟足が肩に着きそう。

 そしてげっそりした頬に、髭がまばらに生えていた。



 ヒゲ!?



 驚いた。

 驚いて、鏡に顔を近づけ、頬と、それから顎の下を手のひらで摩ってみる。

 本数はまだ少ないとはいえ、黒く硬い確かな毛の存在。

 実を言うと、僕はまだ何らかの道具を使って、自分の髭を剃った事が無かった。

 高2を過ぎた頃から、何となく鼻の下と口の脇に、ちろっと伸びてくる毛はあったけど、気付いた時に、適当に指で摘まんで、抜いてしまえば済む程度のものだった。

 あとは定期的に、近所の行きつけの床屋に頭と顔を預けておけば、すっきりサッパリ、何の問題も無かったけれど、そういえば前回散髪に行ったのは何月だったんだろう。

 夏前か?

 そしてその貧相な無精ヒゲの生えた顔と、首と両腕だけが、胸や腹に比べて、恥ずかしいほど真っ黒にドカタ焼けしている。



 何だ……?



 色白でガリガリの、高校時代の自分とは別人のようにむさ苦しい。

 そして細かった腕が、妙にスジっぽく、ゴツく感じる。

 僕は訝りながら、右腕を真っすぐ水平に伸ばし、それから肘を直角に曲げてみた。

 すると二の腕に、小さいながらも、筋肉の盛り上がりが現れた。


 『ダルマ筆より重い物を持った事が無い』


 というのが開き直りの自慢の腕に、まさかの力こぶ。

 どういう事だこれは。

 日焼けは自転車での予備校通いのせいとして、この腕の変わり様は?

 週一とはいえ、ババさんの畑仕事を手伝わされているせいだろうか。

 そういえばダルマ筆どころか、スコップやクワを握らされ、初めは皮が剥けてた手のひらも、今はすっかり硬くなってしまった。

 だからサーフィンやってるなんて勘違いされたのかもしれない。

 そういえばマチスポの力石店員も、僕の事を当然のようにサーファーと見なして話しかけて来た。



 不愉快だ。なんで僕が野蛮人達と同類に……


 …けど……



 リアルサーフの青い紙面が頭に鮮やかに蘇る。

 そして磯野さんとババさん、青シャツやスケボ男、力石店員とケミカル軍団。

 それに松本さん……


 松本さんの、僕の心を緩ます笑顔。


 けれどその後を、すぐに佐藤美由紀の、曖昧なはずの顔が追って浮かんだ。


  ……覚えてしまった


 ……そして思い出したくない言葉の数々


 ため息が出る。

 僕はいよいよ頭が混乱してきて、鏡に背を向け、浴室に入って扉を閉じた。



 僕は9月で十九歳になる。


 最後の10代。


 そして松本さんは、来年の4月に二十歳になるのだ。





 



 

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