よみがえる 涙の記憶


 

 中学最初の中間テストで、僕は学年五位だった。

 それに比べて彼女の方は、下から数えてその位……。

 で、ある日のこと、松本さんとおばさんが、揃って僕の家にやってきた。


 母さんが留守だった時で、僕は玄関先で、立ったまま用件を訊いた。

 すると松本さんは口を尖らせ、ぶっきらぼうに切り出した。


「ねえ、ハルダ。私に勉強、教えてよ」

「えっ?」


 僕は何かを、聞き違えたかと思った。

 今まで松本さんが『遊んでよ』と、押しかけて来る事はあっても、『勉強、教えてよ』なんて言ってきた事は、一度も無かったから。

 突然の事に、何と答えて良いのか迷っていると、おばさんは僕の方へ一歩進み出て、僕の腕を優しく掴んで言った。


「ねーぇ、聡くん、週に一回でも良いんだけどさ、うちにきて、梨花ちゃんの勉強みてやって。

 あたしもパパも、無理だしぃ、塾に行こうって言ったんだけど、だったら、聡君に教えて欲しいっていうのよぉ。

 ね、ね、次の期末テストまでに、この子、少しでも成績が上がるようにしてやってよ。

 あとでいっぱいサービスするからぁ」


 おばさんは、綺麗で、すっごい派手な人だった。

 ピンクの唇にマニキュアで彩られた指を添え、小首を傾げてそう言われると、13歳の僕としてはもう、胸と股間の怪しいざわめきを感じながら、首を縦に振るしかなかった。


 その綺麗なおばさんに比べて、当時の松本さんはどんな感じだったかというと、水前寺清子ばりの、オン・ザ・まゆ毛のショートカット。

 で、リトル小錦に似た二重まぶたの大きな目と、ふっくらした頬、それから日焼けして健康的な雰囲気は、今とあんまり変わらないけど、綺麗とか美人といったタイプには程遠く、モンチッチのぬいぐるみそのまんまな感じ。

 ハッキリ言って、女らしさのかけらも無かった。

 だから彼女は、僕の『単なる幼馴染み』以外の何者でも無かった。


 そうやって思い出してみると、松本さんとおばさんは本当の親子じゃないわけだから、顔がちっとも似ていないのは当たり前なんだけど、不思議な事に、今の松本さんの仕草というのは、そのおばさんにそっくりだ。

 リトル小錦と、オランウータンみたいな松本さんのお婆ちゃんが親子で、全く似てないようで、でも似てる、というのとは訳が違う。

 僕は松本さんの本当のお母さんが、どういう人かは知らない。

 この家に引っ越してきた時には、松本土木興業はそこにあって、その時、松本家にお母さんとして居たのはその人だった。

 三人目の人は、顔を合わせても会釈程度しかしたことない。

 だから、松本さんのお母さんというと、どうしてもその二人目の人が思い浮かぶ。

 僕の記憶の限りでは、松本さんは、おばさんに良く懐いていた。

 おばさんも「梨花ちゃん、梨花ちゃん」って可愛がってたし、連れ子の、当時小学生だった妹さんとも、実の姉妹みたいに仲良くしてた。

 だから僕も、気軽に遊びに行けたんだと思う。

 にわか家庭教師だって、塾と部活の合間を見て、適当にうまくやってた。

 僕の母さんが、嫌な素振りを見せ始めるまでは。

 

 ……ちなみに後のサービスとは、おやつと、ちょっとしたお小遣いの事だった。

 一回1,000円で、ヨックモックのクッキーとか、トップスのチョコレートケーキの時もあるし、オランダ屋のピーナッツサブレの時もあった。決してやましい事では無い。

 そしてもちろん、その1,000円は、得意の貯金にまわして使おうとはしなかった。


 で、話戻って、その日はいつものように彼女の部屋で、小さなテーブルに向かい合い、クッションの上に座って、英語を教えようとしてたんだけど、松本さんは、教科書に書いてある英単語以前に、僕が説明する日本語の意味からして訊いてくるので、話がちっとも進まない。

 なんて言葉だったかな……ちょっとよく思い出せないけど……そう「鏡」だったかな。


『これは何ですか?』という図と英語の質問に対して、簡単な、物の名前の英単語が並ぶ枠の中から、正しいものを選んで、『これは○○です』と答える感じの問題だった。

 で、松本さんが、単語の中の一つを指して、


「みろーるって何?」


 って訊いたんだ。 だから僕は、


「mirrorはミラー。鏡のことだよ」


 と、真面目に説明した。

 本当は噴き出しそうだったけど。すると次に、


「鏡って何でいうの?」


 って訊いてきた。

 僕はその時、逆に、訊かれた意味が見えなくって、

「鏡はカガミだよ。人の姿が映るあれ。知らないの?」と言って、部屋の中の鏡台を指差した。

 すると今度は、「だからそれを、なんでカガミって言うの?」と来る。

 はぁ?ってなもんだ。今なら得意げに、

「自分の影を見るって意味から影見、カゲミ、カガミ、鏡ってなったらしいよ」

 って、説明してやっただろう。

 けど僕もその時、カガミの語源なんて知らなくて、鏡はカガミなだけで、しかも教えているのは英語なわけで、そんな事まで突っ込んで知る必要無いって思うから、

「今はミラーが鏡ってことだけ覚えてよ」と言うしかない。

 最初はふざけて、僕を困らせようとして言ってるのかと思ったんだけど、あんまりしつこいから、僕もついイライラして、


「そんなつまらない事ばっかり気にしてるから、ビリから五番目なんてなるんだよ!」


 とか言ったんだと思う。

 僕としては、自分が知らないのを棚に上げ、ちょっと皮肉ったつもりだった。

 すると、松本さんはそれを聞くとハッとして、頬が一気に赤くなった。

 それから急に表情を曇らせ、下唇をきゅっと噛みながら僕の顔を見た。

 そしてその瞳が、ゆらゆらっと揺らいだように見えたあと、両目から同時に、涙がどっと溢れ始めたのだ。


 僕は驚いた。


 人が泣き出す瞬間を間近で見たのは、それが初めてだったと思う。

 彼女の下まつ毛の先で、涙のつぶが大きく膨らみ、それが頬を伝って、本当にポタポタと音を立ててノートの上に落ちていく。

 その間、松本さんは少しも目を逸らすこと無く、僕を上目づかいで見続けている。


 僕はどうして良いのか分からず、けど、とにかく泣き止んでもらわなくては困ると思い、

うろたえながら「え、うそ、ごめん」と言って、彼女のびしょびしょの頬に右手を伸ばした。

 そしたら松本さんは、その手を両手でしっかり掴み、テーブルの上に祈るように肘をつき、僕の目を見詰めながら言ったのだ。



「私、ハルダに近づきたいのに……」



 そして今度は目を閉じて、僕の手を涙まみれの顔に押し付け、声を上げて泣き出した。

 それはもう激しく、強く、肩を震わせながら。

 その時の、指や手のひらに当たる、柔らかい唇の一部と、まつ毛の硬さ、嗚咽と共に吐きだされる呼吸と涙の温度は、僕の中の甘い感情を刺激した。

 今まで全く意識していなかった、モンチッチみたいな、やんちゃな幼馴染みを、一人の女の子として意識した瞬間だった。

 けどその甘さは一転して恐れに変わり、同時に僕は、その感情を遮断した。

 彼女の言葉を黙殺したのだ。下記の通り。


  松本さんは……僕のことが好きだったのか。

  

  けどごめん。 僕は今、勉強が第一なんだ。

  けどごめん。 僕は今、勉強が第一なんだ。

  けどごめん。 僕は今、勉強が第一なんだ。

  けどごめん。 僕は今、勉強が第一なんだ。



  どっひゃーーーーーーーーーーーー!!!!


 そこまではっきり思い出し、僕はトランクスに突っ込んで、止まったままになっていた右手を引っこ抜き、マット運動の選手よろしく勢いをつけてベッドから跳ね起きた。

 そして再び、東の窓に駆け寄った。 

 今ここで跪き、忌々しい右手に清らかな花束を持ってあの部屋の窓に捧げれば、君は許してくれるだろうか!?



  私、ハルダに近づきたいのに



 そうだ。あの時の言葉。あの時の表情。

 僕はずっと気づかないフリしていたけど、松本さんはあの頃、僕のことが好きだった。

 嘘かと思うかもしれないけど、僕はその当時、少々モテた。

 高校では自他共に認めるどうしようもない落ちこぼれで、女子からはカス同然の扱いを受けてたけど、中学三年間は、成績はクラスで必ず一番だったし、学年でも二桁代に落ちた事は無かった。

 小、中学時代にモテるには、顔の良し悪しより、スポーツ万能とか、勉強ができるとか、人を笑わすのが上手いとか、一芸に秀でている事も重要だ。

 中二、中三の時は、マイナー書道部とはいえ、一応部長だったし、男子少なかったし、運動能力はさっぱりだったたけど、背はまあまあ高い方だったから、書道部以外でも、文化系の女子には細々と人気があった。


『今度の日曜、高根図書館の歴史A−2の本棚の前で待ってます』


 なんて、知らない子から手紙を貰ったこともある。

 カッコ付けて捨てちゃったし、行かなかったから、証拠を見せろと言われても困るのだけど。


 でも本当に、僕はその当時、女子とおしゃべりするよりも、好きな本を読んだり、勉強してる方が面白かった。

 クラスの中では誰と誰が付き合ってる、なんて話もしょっちゅう聞いたけど、高校に入ったら、彼女なんていくらでもできるだろうと、余裕かましてた。

 それは全く、叶わぬ夢となったわけだけど。

 そういえばこんな事もあった。

 僕が松本さんと一緒に登校しているのを見て、下級生の女の子に

「陸上部の梨花先輩と、付き合ってらっしゃるんですか?」

 て訊かれた時、僕は


「松本さんは、ただの幼馴染さ」


 と、髪を掻きあげ、すかした笑みを浮かべて答えた気がする。

 そう。僕は、松本さんの熱い視線を無視して、受験勉強に励んだ。

 そして僕は志望校に合格し、それが結局、僕らを三年間、きっちり隔てる原因になった。

 その間に、松本さんは僕のことは忘れようと、他の男と付き合ったりしたかもしれない。

 そしていつか、僕を振り向かせてやろうと努力して、あんなに綺麗になったんだ。

 それはそれでちょっと悔しいけど、でもやっぱり、松本さんの心の奥底には、僕を想う気持ちがあって、その想いが今日、殴られた可哀想な僕を見て、一気に解き放たれたに違いない!!だからあのキスを……。

 そして僕はと言えば、三年間、君のことなんて薄情にも忘れていたクセに、恋しちゃいけない浪人生の分際で、君の思惑通り、綺麗になった君のことをすっかり好きになって……


  

  つまり、僕らは、、、僕らは、、、、


  今、まさかの両想い……!?



 その結論に至った時、階下から突然、悲鳴が聞えた。


 それは紛れも無く母さんの悲鳴。

 そして僕の名前を呼んでいる。


「聡!ちょっと、サトシーーー!!」


 いつに無く切羽詰まった叫び声に、僕は慌てて部屋から飛び出し、階段を駆け降りた。

 母さんはいつの間に帰宅していたのだろうか?

 僕がボーっと物思いに耽っていて、気付かなかっただけなのか??

 とにかく僕は、声のする台所に駆け付けた。


「母さん、どうしたの!?」


 床には、ババさんがくれた、ソラマメの長い緑の鞘が散乱してた。

 そして母さんは、無理めな短いスカートからヒザ小僧をのぞかせて、流し台の前にへたり込んでいた。

 ストッキングに包まれた左足からスリッパが脱げ、その横には、薄ピンクの水風船がプニプニと震えながら転がってた。

 母さんは、それを右足のスリッパの先で、気味悪そうに小突いて訊いた。


「サトシ、コレはいったい何のつもり……!?」


 何ってそれは、殴られた僕の頬を癒してくれた氷のうだ。あ、しまった。

 そう言いかけた僕の、酷い顔を見上げる母さん。

 口紅の塗りたくられた唇がパカッと開いて、再び金切り声が発せられる。


「きゃーーー!!あなた、どうしたのその顔!!!」


 うっかり降りて来ちゃったけど、この顔のこと忘れてた。


「あ、や、気にしないレ、ちょっと転んラんら、事故とぁゃないよ」


 言い訳にもならない言葉を並べながら、僕は母さんから顔を背けてしゃがみ込み、辺りに散らばったソラマメの鞘をそそくさ拾って、茶色い紙袋に回収した。

 そして僕が水風船に手を伸ばした時、母さんがまたヒステリックに叫んだ。


「だからソレはどういうつもりなの!?」

「え、や、どうって、ソレマメくれた人が顔、冷やすようにってくれたんラ。僕はもう要らないって言ったんラけど、、、なんら、こんなとこに……」


 僕はすっかり氷の解けた水風船をつまみ上げ、良く見えるように母さんの前に吊るして見せた。


「きゃっ、やめなさい、そんな汚い!!……サトシ、あなた今日どこで誰と何してたのっ!?」

「ええ?何って……ラから松本さんと、、、」


 そこまで言って、思わず黙り込んだ僕と母さんの間で、先の飛び出た水風船が、はち切れそうに上下に弾む。

 母さんは見るに堪えないと言うように、顔の前に手をかざすと、


「そんなモノ捨ててしまいなさい!早くあっちに……いえ、もういいから、さっさと二階に行ってちょうだいっ!!」


 そう言うと、母さんは驚いたことに、床に転がってたスリッパを僕の方に投げつけた。

 母さんが僕に対して、そんな事をするのは初めてだった。

 結局僕は、何をそんなに母さんが騒いでいるのか分からないまま、台所から追い出され、水風船とソラマメをしまった袋を、胸に抱えて二階に戻った。



 ……その水風船が、


『愛し合っているなら0.03ミリ離れなさい』


 というキャッチコピーで有名な、岡○理研の、由緒正しきゴム製品だと知ったのは、次に『GOOD2GO』に行った時だった。


 僕の話を聞いて、ババさんは大爆笑。

 今時そんなことも知らない18歳がいるとは思わなかったって。

 磯野さんもその横で、目尻に一本の皺を寄せ、クールな感じで笑ってた。

 だって、仕方ないだろう?AVは見慣れてるけど、そこにはそんなもん出てこないわけだし、高校時代の悪友も、やっぱり僕だけ除け者にしてたのか、パッケージは見たことあるけど、誰も実物、くれたりはしなかった。

 自分で買いに行けって?……だって、必要無かったし。

 僕は決して、無駄なものに金は使わない主義なのだ。

 でも、もしかしたらそろそろ出番が……いや、受験が終わるまで、ソレは考えるまい。


 まあとにかくあの時の、厚化粧した母さんのパニクり顔と、僕のボケっぷりは、今、思い出しても可笑しくて。

 でも分かるよ、母さんのその時の気持ち。

 自分の息子のそういう部分、知りたくないの当然だよね。


 けど、僕だってそうさ。


 母さんの、単なる『女』の顔なんて、見たくないんだ。


 松本さんのおばさんみたいに、別にオシャレじゃ無くてもいい。

 ただ、普通に年相応で、家に居て、ご飯作って、いつも笑顔で待っててくれる。


 そんな人でいてくれれば、


 僕は充分なんだけどね……















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