迷うことなど 何もない



 涙と鼻血を綺麗に拭い、服を貸してもらって上下とも着替えている間、ババさんは自分が育てたという無農薬野菜の、特製ジュースを作ってくれた。


 大きな調理台のまな板の上で、小気味良い音を立てながら菜っ葉やら何やらの野菜を刻むババさん。

 それをミキサーではなく、すりこぎですり潰して浄水器から水を足し、クーラーボックスから取り出した氷の塊を、アイスピックでリズミカルに砕いてクラッシュアイスを作る。


 トントン、ゴリゴリ、サクサク、シャラシャラ


 原始人的な容姿のババさんの動きと共に聞える、これまた何とも原始的な音。

 それが外からの風と森のざわめき、鳥のさえずり、それから今まで気付きもしなかった、虫の羽音とか色んな自然の音と混ざりあい、ある種「音楽」のように耳に心地良かった。


 その間、磯野さんは居なかった。

 僕が、頭も体も異常無いのを確認すると、


「じゃあ、俺は昼寝するから」


 と言って、また小さな目でニッコリ微笑み、それから慣れた手つきで縄梯子を登って小屋の天井を抜け、サッサと木の上に消えてしまったのだ。


 それで僕は一人で、凝ったわりには微妙な味の特製野菜ジュースを、ババさんのギョロ目が見守る前ですっかり飲み終えなくてはならなくて、それから「美味いだろ?」と言われたので「はい」と俯き加減で答え、そしたらグラスの底に、氷に紛れて小さな芋虫がもがいているのを発見し、思わず悲鳴を上げそうになったのをグッとこらえ、ババさんが鼻歌交じりに調理台の上を片付け始めた隙に、震える指でその芋虫をグラスの底からつまみ出し、それをそっと木の窓枠に移してやったら、すぐにそいつが窓の外に転げ落ちて、助けたんだか殺したんだか分からないような複雑な気持ちになって、でももうそういう事については、こんな日は深く考えないようにしようと決め、それから「ごヒそうさまでヒた」とお礼を言って、帰ることにした。


 結局、開きもしなかった参考書の入った重いカバンと、汚れた服と、お土産にもらった大きなソラマメがたくさん入った茶色い紙袋を手に持って、僕は縄梯子を降りた。


 地面に降りた途端、何だかすごくホッとした。

 まさに『地に足が付く』と言ったら良いのだろうか。

 植物が地面から水を吸い上げるように、僕の足が、大地のエネルギーを急速に吸い上げたような安堵感があった。

 その時、ふと磯野さんの目を思い出した。


 それから、自分の白いオデッセイの方を見ると、隣に深緑色のレガシーワゴンが停まっていた。

 間違いなく磯野さんの車だろう。

 93年のマイナーチェンジの時の物で、ナンバープレートは、そういうのが出来たというウワサは聞いていたけど、まだ実物は見た事のなかった湘南ナンバー。

 窓は開けっ放し。

 チラッと中を覗くと、助手席と後部シートが倒してあって、荷室の端まで届くような長いサーフボードが、無造作に置いてあった。


 神奈川県の人なのか……


 僕はもう一度、高床式の小屋を突き抜ける大きな木の全体を見た。

 青々とした葉が隙間なく重なり合い、やはりブロッコリーのように見えるこの木の枝のどこかで、あのライオンのような磯野さんが、ひっそりと眠っているのかと思うと不思議な気がした。


 僕がぼんやりと木を眺めていると、ババさんが遅れて縄梯子を降りて来た。

 ババさんは、僕が見上げている先を振り返り、それから誇らしげに教えてくれた。


「こいつはマテバシイだ」


 それはまるで、同志を紹介するかのような口ぶりだった。


「まてばしい……?」


「そう、シイ、椎の木、椎茸の、シイ。でも椎の木じゃないらしい。

 椎茸栽培にも使われないらしい。いわゆるドングリの木らしいYO」


 ババさんはやたら『シイ』という言葉を入れて、まどろっこしい説明をした。

 最後の『YO』の言い方で、もしかしたらラップの真似ごとのつもりかと思ったけれど、面倒くさそうなのでそこにはあえて触れずに流した。


「どんウり?」


「そう、ドングリ。まだその辺にチョロチョロ、秋に落ちたのが転がってるだろ?」


 僕が『シイ』について無視したせいか、ババさんは一度小さく咳払いして、普通の喋り方に戻して言った。

 それを聞いて、僕は改めて地面を見た。

 そしてここへ来た時、蹴飛ばしながら転がして、最後にポケットに仕舞った、水先案内人の小さなドングリを思い出した。


「はあ……そうなんレすか。どんウりってこんな木になるんレすか……知りませんれした」


「ドングリは美味いぞ」

「え、食べぇるんレすか……?」

「食える。今度食わせてやる。また来い」


「え?」


「場所はもう覚えただろ?」

「はい……迷わなければ、、、」

「迷うわけない。真っ直ぐなんだから」


 ババさんのキッパリとした口調。


「道しるべさえ見落とさなければ、あとは真っ直ぐ来るだけだ」


 僕は来た時の事を思い出す。

 ラスタカラーの看板と、暗い森を抜ける長い道。

 そしてババさんは、



「真っ直ぐなのに迷うのは、道じゃなくて、ここの問題だ」



 と言って僕の左胸を、ゆるく握った大きな拳でポンと小突いた。

 それから、白い歯をむき出し、



「Blessed」



 と言ってニヤリと笑い、くるりと背を向けると、マテバシイの小屋に帰っていった。

 僕はその背中を見ながら、



「ぶれせっどぅ」



 と、同じように小さく呟き、車に乗った。

 そして、松本さんの元へと急いで戻って来たのだった。












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