僕と松本さん


中学時代、優等生と呼ばれていた僕と、
落ちこぼれの底辺にいた松本さんは、
それぞれの学力に見合った高校へと進学したことで、
互いの接点は全く無くなった。

僕は船橋市内の、天文台のある公立高校に約20分の自転車通学。
松本さんは、八街市のピーナッツ畑の中にあるという私立高校に
電車とバスを乗り継ぎ、延々と一時間半ほどかけて通っていたようだ。
家は細い道を隔てて向かい合わせだったけれど、
交友関係も行動範囲もまるで違くなったので、
高校を卒業するまでの三年間、朝も夜も休日も、
顔を合わせた覚えが一度も無い。

その三年の間に、僕と松本さんの身に起こった変化といえば、
僕自身はすっかり進学校で落ちこぼれ、
受験にことごとく失敗して浪人生になった事。
そして松本さんは、その私立高校の付属の短大に推薦で合格し、
女子大生になった事。

それを確認し合ったのは忘れもしない、
アントニオ猪木が引退し、X-ジャパンのhideが死んだ1998年の五月。

賑やかなゴールデンウィークが虚しく横を通り過ぎ、
灰色の浪人生活を送る僕にとって、
唯一の息抜きであり娯楽であったエロビデオを、
隣町のレンタルビデオ店まで返しに行こうとした18歳のある日の朝だ。

その日は明け方4時くらいまで、
世界史の年号暗記とその確認に没頭した。

僕はあまり暗記で根を詰めると、
その後、頭が冴えて眠れなくなる。
そんな時はエロビデオを観て、
数字とカタカナでパンパンになった頭と共に
下半身もパンパンにさせ、
一気に抜き去りクールダウンさせるのが効果的だった。

なので、あらかじめビデオ店で借りてあった3本のうち、
ここ一番の御褒美のためにとってあった最後の1本、
高校当時は借りることのできなかった桜木ルイの、
少し古い作品を見てから寝ることにした。

自室で心おきなくAVを見るため、
京成線大久保駅近くの小さなリサイクルショップで、
3000円という超格安で購入した赤い14型テレビデオ。
それに欲望と共にハイレグ姿のルイ様を押し込む。

しかしあまりに多くを頭に詰め込み過ぎていたせいか、
その日はどういうわけか脳と目と右手の連携が上手くいかず、
まったく思いもよらぬシーンで僕の下半身は暴発した。

その直後、目の前の小さなブラウン管の中で悶え続ける桜木ルイが、
すだれ前髪と太眉の、ただのオバサンにしか見えなくなり、
僕は素早く停止ボタンを押すと、後始末もそこそこにベッドの中に潜り込んだ。

しかし不幸な事に、
いつもなら訪れるはずの安らかな眠りがまったく来ない。

僕はいったい何をしているのだろう……。
まだ5月だというのに。
浪人になった反省も緊張感も無く、
こんなしょうもない事ばかりしていて、
来年は志望校に合格できるのか?
頭が腐ってバカになり続けるだけじゃないのか?
このまま三流以下に落ち続け、
就職すらできなくなるんじゃないか……?

眠気の代わりに襲い来る罪悪感と自責の念。
溜息と寝返りを交互に繰り返していると、
カーテンの外が薄らと明るくなり始めた。
それを見ても、徹夜の自己満足的感動は全くない。

そこで僕は決断し、起き上がった。
そしてテレビデオからビデオを取り出し、
既に観終えた他の二本と共にレンタル店の袋に戻すと、
毛玉の浮いたグレーのスェットの上下という姿のまま、
取りたての免許証の入った、
二つ折りのマジックテープ式の財布と、
父親が無理して買った、
白のホンダ・オデッセイのキーを持って玄関を出た。


するとそこに、松本さんのような人がいた。


そこ、というのは厳密に言うと僕の家の向かい。
三階建ての松本土木興業の一階、事務所部分。
その半分開いたシャッターから、
松本さんのような人がひょいと顔をのぞかせ、
片手で長い茶髪を抑え、もう片手で
大きな荷物を大事そうに抱えて出てきたのだ。

なぜ『松本さんのような人』という
あいまいな表現になったかと言うと、
その時間にそこから出てくる可能性のある女の人は、
正式な家族だとしたら当時、多分4人位いたわけで、
その中で、年齢や背格好の感じからしたら、
それは松本さん以外にはあり得なかったのだけど……
けれど、その人が大きなサングラスを掛けていたので、
顔がはっきり見えなくて、僕にはすぐに確信が持てなかったからだ。

それにその人と、中学の頃の彼女のイメージが、
あまりにもかけ離れていたから。

紺色の制服を着て、スポーツバッグを肩に下げたショートヘアー姿ではなく、
すらりとした小麦色の素足にスニーカーと、きわどいデニムのミニスカート、
ロゴの入った水色のTシャツに、白いパーカーを羽織ってリュックを背負い、
そして右手に大事そうに抱えているのは、僕が知る限りにおいては、
サーフボードという形のものだったから。

僕は、松本土木興業の中から不意に現れたその人を、ポカンと眺めた。
するとその人も、僕が玄関から出たままそこに突っ立っている事に気付き、
一度眉根を強く寄せ、それからゆっくりとサングラスを持ち上げた。






 「春田?」






そこに現れた、懐かしい大きな目。

懐かしい声、懐かしい呼び方。

それはまぎれもなく、松本さんだった。

そしていつの間にかすっかり大人びた顔に、

あの頃と同じ、満面の笑みを浮かべた。

その瞬間、三年という時間の経過はどこかに吹き飛んだ。

ゆるやかに目尻を下げた、彼女にしか作れない独特の笑顔。

それはもう本当に、本当に、素敵な笑顔だったことを、

僕は今でも覚えている。







©Daichi Ishii Office, LLC.