II - Chapter 1 / Verse 1

 世に一つの国があった。”帝國”、人々は彼の国をそう呼んでいる。巨大な石造りの円の砦の、広大な国土の中に、日本、イギリス、フランス、その他の数多くの世界各国が詰め込まれた国である。全てを支配するのは皇帝ただ一人。現在は、皇帝フランシスが統べる時代であった。


 * * *


 隣室から大きな産声が上がる。女中達が部屋から血の付いたタオルや水を大忙しで入れ替えている中の出来事であった。真っ白い純白のタオルを抱えて、女中長が気持ち早足に隣室から姿を表す。

「おめでとうございます陛下、男の子にございます!」

 ソファーに座って俯いていた金髪の男、皇帝フランシスは待ちきれずに立ち上がる。待望の息子を、彼は逸る気持ちを抑えてゆっくりと女中長から受け取った。タオルの中の赤ん坊はすっかり眠っている。

「マリアの容体はどうだ?」

「はい、安定しております。」

 良かった、とフランシスがほっと安堵のため息をつくと、女中長は彼を隣室へ、妻マリアがいるベッドへ案内する。長い黒髪をゆったりと結んで、マリアは女中達に顔の汗を拭かせていた。隣のベッドのシーツはすっかり剥がされている。どうやら女中が洗濯の為に持っていったようだ。

「男の子だ、マリア。」

 夫の腕の中からマリアはそっと息子を受け取った。妻が愛おしそうにその頬や頭を撫でていると、注意を促す為にフランシスは一度咳払いをする。やがて子供から目を離し、マリアはフランシスを見上げて嬉しそうに言った。

「彼の名前は、レイにします。」

「レイか、思い出深い名前だ。」

 ふと遠い目をして笑ったフランシスに、マリアは困ったような微笑みを浮かべる。皇帝夫妻の第一子、やがて皇帝の座を継ぐことになるであろうこの赤子は、暗い夜空に一陣の光がさす暁の空の下に誕生した。


 * * *


 皇太子誕生の報は帝國中を賑わせた。城下は祝いを意味する赤と白の花で飾られ、人々の金は経済を回した。貴族達は昼に城へ、夜は友人の邸宅へ足を運び、皇族の執務を手伝う神官達はそんな貴族達の相手で精根尽き果てていた。

「陛下、元帥閣下が来ております。」

 ようやく貴族の波が途切れ始めた時期。謁見の間で祝辞を述べに来ていた貴族を追い払ってすぐに、玉座で惚けているフランシスにお付きの神官であるロビンが疲労まみれの顔を浮かべてやってくる。一瞬、通せ、と口に出しかけたフランシスは、ようやくロビンの言葉を理解したのか重い腰を上げた。

「応接間で会おう。マリアも呼んでくれ。」

 フランシスも謁見の間から退室するのを見送りながら、かしこまりました、とロビンは一礼した。


 黒い髪の男がロビンの後についていく。腰には太刀を佩き、煌びやかな礼装に身を包んだその男は、柔和な笑みを浮かべながら廊下の外の景色を楽しんでいる。身も凍てつく冬であったが、城の温室の中には様々な花が咲き乱れていた。男の正体は現在この世で最も有名な軍人である。今をときめく史上最年少元帥、現皇帝フランシスの兄、バスカヴィルであった。

「陛下はこちらでお待ちだ。」

 金のドアノブを回しながらロビンはそう言った。中からは穏やかな家族の声が聞こえる。バスカヴィルは城に入ってから初めて口を開いた。

「ありがとうロビン。」

 何を思ったのか、その言葉にロビンは眉間に皺を寄せた。ただでさえ険しいロビンの表情が一層険しくなったが、バスカヴィルはそんな彼には目もくれずに応接間に足を踏み入れる。背後で扉が閉まると、赤子からマリアが目を離した。

「まぁヴィル! 来てくれたのね!」

 未だあどけない面影を残すマリアは、らんらんと目を輝かせて立ち上がる。赤子を抱いていたフランシスもゆっくりと立ち上がった。マリアの歓迎の声に、バスカヴィルはロビンに刀を預けて両手を広げる。駆け寄ってきたマリアを腕いっぱいに抱きしめて、バスカヴィルは挨拶した。

「久しぶりマリア。子供が生まれてから体調はどうかな?」

「特に何事もないわ。」

 少しだけ疲れの色は見えたが、マリアは満面の笑みでバスカヴィルに答える。フランシスも女中長に赤子を預け、バスカヴィルに右手を差し出した。

「そういう兄上は最近顔を見なかったが。」

「私はつつがなくだよ。それより君は大分疲れてるようだね。」

 差し出された右手を握りながら、バスカヴィルは頭一つ分背の低い皇帝の顔を覗き込んだ。顔色はさほど悪くはないが、声はいつもよりかれており、少し老け込んでいるように見えた。

「兄上が時期をずらして来てくださったことに感謝するよ。ここ一週間、ひっきりなしにやってくる貴族共の相手で引っ張りだこさ。」

 肩を竦めた皇帝はロビンに紅茶の用意を命じ、兄に椅子を勧めた。しかし、バスカヴィルは頭を振る。

「私はまだまだ忙しいからこれで退散するよ。すまないね、応接間にもわざわざ移動してきてくれたんだろう? もう紅茶を取りに行ってしまったロビンには申し訳ないけれど……。」

 扉を一瞥して、バスカヴィルは苦笑した。彼はなにからなにまで仕事が早いね、と言うと、別れもそこそこにするりと部屋からいなくなってしまう。マリアが顔を上げると、フランシスが少し寂しそうな顔で扉を見つめていた。

「大丈夫よ、きっと仕事が忙しいだけですもの。」

 沈黙を守ってソファーに座り込んだフランシスの両肩に、マリアはそっと手を置いた。大きなため息が部屋に吐き出される。振り子時計の秒針音が時を刻んでいると、遠くから慌ただしい足音がやってきた。応接間の前でぴたりと音がやむと、勢い良く扉が開く。

「皇帝陛下、分家当主が!」

 息を切らせたロビンの手の上にあるのは、ティーセットではなく一枚の紙切れである。神官長の言葉にフランシスとマリアは息を呑んだ。恐る恐るその紙を受け取り、マリアの目には触れないように広げる。

「今すぐお越しを。」

 低く掠れたロビンの呟きに、フランシスは彼の顔を愕然と見つめることしかできなかった。


 皇族に代々受け継がれる力があった。”薄暮の瞳”、七つの大罪にまつわるその力を、彼らは一人一人持っている。フランシスはロビンから受け取った紙切れを握り潰しながら、大股で謁見の間まで急いだ。廊下ですれ違う神官達の一礼には目もくれず、重い豪勢な観音扉を自ら押し開ける。一目で分かるアメジストのマント、その金の縁。フランシスはそれを視界に入れるだけで不機嫌な顔をした。

「そこからの視界はどうだレイモンド。」

 本来フランシスが座るはずの玉座に不遜に腰掛けるマントの男は、その口元を歪めて立ち上がった。

「確かにいいが、私には高すぎるな。」

 声高らかにそう言ったレイモンドは、すぐさま椅子から立ち上がり階段を降り始めた。目深に被ったそのフードから見えるのは鼻先から顎までである。古代風の白い服もマントの合わせからちらちらと見えるだけで、非常に胡散臭い雰囲気を見る者に与えた。

「分家ごときがこの私に何の用だ?」

 分家とは、大昔に皇族から分離した家とそこに属する者を指す。その理由を知る為に歴史を遡るのは現在では歴史学者くらいであるが、分家の人間はその異様な出で立ちと法を逸脱した行為から、帝國の人々から最も忌み嫌われていた。勿論、皇帝も分家を忌み嫌う者の内の一人である。

「なに、難しいことではない。お前があの一件から禁じた薄暮の瞳を、是非ともお前の息子には解放してもらいたいだけだ。」

 フランシスは顎を突き出す。よく日に焼けた腕が差し出した一枚の紙切れを受け取り、レイモンドに背を向ける。

「それで、お前達は何を得るんだ?」

 分家当主は笑みを深めるだけで何も答えない。無言の時が謁見の間に流れた。フランシスはゆっくりと紙切れを握り潰すと、それを後ろに放るや否や腰に下げていた儀礼用のサーベルを引き抜いて、空もろとも紙を切る。首筋に一気に迫った白刃を、しかしレイモンドは避けようとしなかった。

「お前に答える義理はない。」

 つい、と刃に指をかけて、レイモンドはゆっくりとサーベルを下げさせる。それを持った腕をだらしなく下ろすフランシスの横を、レイモンドは音もなくすり抜けていった。

「お前がやらないなら、私がやろう。」

 フランシスの後ろで、扉が音を立ててゆっくりと閉まっていく。謁見の間は、冷えた沈黙とフランシスを取り残したまま夕暮れを迎えた。


 * * *


 バスカヴィルはかつて皇太子であった。皇族の長男として、異母兄弟とはいえ唯一の弟フランシスの兄として、優秀な教育係に恵まれ立派に育った皇太子であった。両親から一心に愛情を注がれ、帝國史上最も民衆から待望された皇太子と言っても過言はなかったかもしれない。彼には婚約者もいた。当時貴族の中で最も可憐だと持て囃された公爵息女、マリアである。彼にとっては何もかも万事上手く進んでいた。弟を、悪魔が襲わなければ。


 暗雲立ち込める空が一瞬光ると、怒声のような雷鳴が地に轟いた。馬車の窓に打ち付ける大粒の雨を、バスカヴィルは無表情で見つめている。微笑めばどんな絶世の美女も絆されるその顔は今、氷のように冷たかった。馬車は彼の屋敷の前で止まる。屋敷の使用人が、タオルを持って玄関口から駆けてきた。

「お帰りなさいませ閣下。ひどい土砂降りで――」

「先にこの子を拭きなさい。私は部屋でいい。」

 馬車から降りたバスカヴィルは、全身を包む黒いマントの中にいる少年を使用人に渡した。黒い髪と陰鬱な瞳、見るからに暗い雰囲気を漂わせるその少年に、使用人は一瞬たじろいだ。

「分かりました。しかし閣下もそのまま衣装室まで歩いて行ってはお風邪を召されます。広間の暖炉の前で温まっては……閣下?」

 一度馬車に戻ったバスカヴィルを、使用人は訝しげに呼び止めた。やがてバスカヴィルが馬車から出てきた時には、その腕にすっかりとやつれ果てた女性が抱かれていた。だれもが知っている艶のあった黒い髪は見る影もなく、瞼は泣き腫らして赤くなっていた。

「タオルは寝室へ、暖炉にも薪をくべておきなさい。」

 使用人の顔は蒼白であった。口を金魚のように開閉し、目は女性の顔一点に注がれている。

「か、か、閣下、そのお方は……!」

 バスカヴィルは何も答えなかった。すっかり昏睡状態に入っているマリアを抱いたまま、その横をすり抜ける。地面に雨粒が叩きつけられる音を聞きながら、使用人は唖然としたままその姿を見送った。


 * * *


 優雅なワルツがダンスホールに響いている。美しいドレスに身を包んだ婦人達は理想の殿方を囁きあい、型にはまった燕尾服を着こなす紳士達は昨今の世界情勢について額を付き合わせて文句を言っている。しかしそんな大人達の事情もいざ知れず、黄金に輝くホールの艶めく床の上を元気に走り回る少年の姿があった。

「おいヨハン! こっちこいよ!!」

 明るい金髪はシャンデリアの光を受けて一層黄金に見えた。瞳は地中海の海面を思わせる青である。伯爵家きってのお転婆次男と呼ばれるこの少年は、後ろから半眼でゆっくりとついてくる藍色の髪の少年を手招いた。

「もう少しゆっくりあるいたらどうだ。」

「はやくしないとデザートがなくなっちまうぞ!」

 少年達は、立っただけではまだテーブルに手が届かない身長であった。伯爵家次男、ジャンは近くの給仕の燕尾を引っ張って、どんなデザートがあるのかせっついている。

「別にきゅうじにとってもらうひつようはないだろ……。」

「なんだよ、はずかしいのか? おれがとってやるよ!」

 胸を張って踏ん反り返ったジャンであったが、ヨハンは相変わらず半眼である。取れないくせに、とぼやいていると、後ろからのっそりと黒い影がやってきた。うらめしそうにテーブルの上を見上げていたヨハンの眼前に、突然プリンが差し出さる。

「これがいいか?」

 ヨハンはゆっくりと上を見上げる。赤褐色の髪、実年齢にしては少し老けすぎて見える兄の顔を見ると、差し出されたデザートを恐る恐る手に取った。ヨハンはガラスの皿の上で揺れる黄色い物体を見ながら、二度ほど頭を縦に振った。

「あっいいなー、おれにもぷりん!」

 手をテーブルの上に出して振るジャンにもプリンが差し出される。

「どうぞ、ジャン君。」

 紳士的な優しい声がジャンの頭上から振りかかった。プリンを受け取ったジャンも上を見上げる。

「ヴィルおじさん!」

 元帥をおじさん呼ばわりする伯爵家次男にヨハンは一瞬びしりと固まったが、ジャンの表情を覗き見るバスカヴィルの表情は何一つ変わっていない。ジャンは給仕からスプーンも受け取り、プリンを美味しそうに頬張った。

「ところでバスカヴィル閣下。」

 ヨハンの兄、ロベルトは足早に去って行ったバスカヴィルの後を追って隣に立った。ダンスホールに面した吹き抜けの廊下の上で、バスカヴィルはひしめく人々を一望している。

「養子をおとりになったと聞きましたが。」

 懐中時計は十一の文字を指していた。まだまだダンスパーティーは続くだろう、バスカヴィルは文字盤を見つめながらふとそう思った。ロベルトの言葉に、バスカヴィルは頷くでもなく彼と向き合う。

「あそこに座ってる。」

 バスカヴィルが示したのは、廊下からようやく見える庭であった。噴水のベンチに座っているのは黒い髪の少年である。そこへ金髪の少年が駆け寄って行く。

「元帥――」

「構わない、少し様子を見よう。」

 階段を駆け下りようとしたロベルトの肩を掴み、バスカヴィルはそう宥めた。


 たまたまであった。ジャンも見覚えがなければ、その少年に駆け寄ることもなかっただろう。噴水のベンチにぽつんと座る少年の表情はジャンにはよく見えない。芝生を踏んで立ち止まった少年の肩をヨハンが掴む。

「おい。」

「ねぇ、あのかおみたことないか。」

 唯一の友人に促されて、ヨハンは眉間に皺を寄せながらまじまじと少年を見つめた。俯いていて顔は見えない。じっくりと観察している間に、ジャンはお得意の猪突猛進さで少年の隣に座った。

「もしもーし?」

 少年は初めてジャンに気付いたのか、慌てて顔を上げる。深い黒曜石の瞳が、ダンスホールから漏れる照明によって煌めいた。しかし、表情はどこか暗く、影を落としている。ヨハンはジャンに近づいて耳打ちした。

「亡きこう太子でん下に似てる。」

 険しい顔をしたヨハンの方をジャンを振り向いた。そうしてもう一度まじまじと少年の顔を見つめる。少年は明からさまに嫌そうな顔をしたが、ジャンは首を傾げて聞いた。

「なまえなんていうんだ?」

 少年は戸惑いの視線をジャンに投げるが、ジャンは聞くのをやめようとしなかった。長く声を出していなかったのか、少年は何度も息を吸っては声を発することをやめている。長く時間をかけて、ようやく少年は名乗った。

「おれは……レイだ。」

 言い終わるとともに聞こえた草を踏む音に、ジャンとヨハンはダンスホールの方へ振り向く。バスカヴィルとロベルトが、少年達の方へ歩み寄ってきていた。

「彼は私の養子でね、少し心に傷を負っているんだ。だから、これから暇な時はいつものように気軽に私の屋敷においで。彼の遊び相手になってほしい。」

 バスカヴィルはジャンとヨハンの背中をそっと押してレイと向き合わせた。レイは噴水のベンチに座ったままである。ヨハンはジャンに視線を投げかけたが、ジャンはお構いなしにレイに片手を差し出した。

「おれはジャンっていうんだ。あしたからいっしょにあそぼうぜ!」

 意気揚々と話しかけるジャンの片手を、レイは戸惑いがちに握った。満足げに笑うジャンは、ヨハンを肘でつつく。一瞬ジャンを見て、そしてヨハンも恐る恐る右手を差し出す。

「ヨハンだ。」

 言葉少なに自己紹介したヨハンには、レイは少し苦手意識を持ったようだった。渋る彼の手をジャンは強引に引っ張り、ヨハンの手を握らせる。

「それじゃあ、これからおれたちさんにん、しぬまでずっとともだちな!!」

 夜の帳の下で、三人は永遠の友情を誓い合った。


 * * *


 レイが驚いたことといえば、ジャンが本当にその日の翌日に、しかもヨハンを連れ立って屋敷にやってきたことである。階下からバスカヴィルに呼ばれて玄関口に立ってみれば、そこには元気に挨拶をするジャンと、その日の勉学を未だ終えられずに本を必死に読んでいるヨハンの姿があった。

「ジャンはどこにすんでるんだ……?」

 レイの素朴な疑問である。ジャンは頑張って暗記したのであろうよくわからない通りと番地をあげ、ヨハンはすぐ近くの屋敷を指差した。ヨハンはそもそも一家が軍人であったため、元帥であるバスカヴィルの家の近くに住んでいたことはそこまで不思議ではない。

「きょうはなにする? おにごっこするか?」

「とりあえずおれのふくしゅうをおわらせてくれ。」

 軽く弾みながら言うジャンに、ヨハンは苦情を申し立てた。


 軍人の家に生まれ、軍人として育てられるヨハンは毎日規律正しい日々を送っている。門限は厳守、朝食後から昼食後一時間までは勉学に励んだ。あらゆる言語、宗教、地理、数学、軍事、剣術、外交、さらには社交辞令に至るまで、彼は徹底的に叩き込まれた。勉学の時間が終わっても、その復習で夕食まで時間を使うこともそう珍しくはない。

「おまえさー、ほんとべんきょーすきだよな?」

 レイの部屋で菓子を摘みながら永遠と分厚い本を読んでいるヨハンに、ジャンは半眼でぼやく。隣でヨハンの本を覗き込んでいるレイに、ジャンは面白そうに言った。

「おれがいえにあそびにいくと、たいてーほんもってでてくるんだぜ!」

「そ、そうなのか。」

 眉間に皺を寄せたヨハンを横目に、レイは恐る恐るそう答える。やっと復習の範囲が終わったのか、ヨハンは思い切り本を閉じて大きく息を吐いた。

「レイはどんな本をよむんだ?」

 紅茶をすするヨハンは、面白そうに表紙の字面を眺めるレイにそう聞いた。レイは少しだけ考えた後、枕元に置いてあった文庫本をヨハンの元へ持っていく。恐らく屋敷の書庫に置いてあったのだろう。紙はすっかり黄ばんでいたが、表紙はそこまでヤケておらず、美しい状態で保たれている。

「アーサー王伝せつか。」

「おもしろい。」

 ヨハンの言葉にレイは頷いた。

「おれもよんだことあるぞ! ランスロットがふりんするんだろ!!」

 意気揚々と知識を自慢するジャンに、どこで覚えたんだその言葉、とヨハンは吐き捨てるように言う。

「ガウェインが好きだ。」

「おれもだ。」

 紙をペラペラとめくるヨハンは、やがてレイに本を返した。すっかり空になったポットを置いて、ジャンは最後のクッキーを急いで口に入れる。どうやらよほど遊びたいようであった。

「そとでようよ、いっしょにはなかんむりとかつくろう! こないだいもうとにおしえてもらったんだ!」

 椅子から転げ下りて、ジャンは二人の袖口をひっぱる。ヨハンとレイはしばらく困り果てた顔をしていたが、やがてジャンの根性に折れて屋敷の庭へ出て行った。


「ほらーできたぞ!」

「不かっこうだな……。」

 庭に出てジャンは先程言ったように花冠を作って見せたが、形はだいぶ崩れており花もすっかりしおれていた。あまりの出来の悪さにしかめ面をしたヨハンには目もくれず、ジャンは背を向けていたレイの頭にその花冠を乗せる。

「レイにもはなかんむりのつくりかたおしえてやるよ!」

「はなかんむりくらい作れる。」

 レイはジャンに自分が作った花冠を渡した。ジャンの花冠とは見違えるほど立派なものである。色とりどりの小さな花はまるで宝石のようであった。目を丸くしてジャンはその花冠を受け取る。

「すげー! だれにおそわったんだ?」

 見事な花冠をジャンから手渡され、ヨハンはそれをしげしげと見つめながら聞いた。

「まえにははうえからおしえてもらった。もう……ここにはいないけど。」

 レイはきつく目を瞑る。


 貴族階級は軍人より下の階級であり、ジャンもまたその一人である。多くの貴族が軍人を嫌い、また軍人も貴族を嫌っていた。ジャンとヨハンの家もお互いその例に漏れない。二人が会ったのは数年前の皇帝主催のパーティーでのこと。それから二人は親の目を盗んでは外に出て遊んでいた。門限を過ぎて親から叱られることもあったし、ヨハンに至っては家訓ゆえに鞭打たれ、食事を抜きにされることも多々あった。そんなヨハンの目に余る不品行に対して、実際には罰を受けてすっかり疲れ果てた弟を見るストレスに耐えかねて、バスカヴィルに解決策を求めたのは他でもないロベルトであった。

 当時バスカヴィルは、軍人と貴族の間にできた溝を、というよりは多くの階級の間にできた溝を、どうにか埋められはしないか、と試行錯誤している時であった。バスカヴィルは好都合とばかりに二人に遊び場所として自らの屋敷を快く提供した。帝國の軍政を一手に担う元帥の目下とあっては、この二人の少年も下手なことはできないだろう、と彼らの親は渋々了解したのである。

「帰る時間だヨハン。」

 すっかり遊び呆けていた三人の耳に、束の間の別れを告げるベルの音が届いた。玄関口では、仕事帰りであるロベルトがヨハンを迎えに来ている。

「お茶でも飲んでいけばいいのに。」

「ヨハンには門限がありますので。」

 寂しそうな顔でロベルトの横に立ったヨハンは、バスカヴィルの両側に立つレイとジャンを見上げた。そろそろジャンの親も迎えに来るのであろう。ロベルトは辺りを気にしながらすこし落ち着きのない様子である。

「明日もまたくるといいよヨハン君。」

「おじゃまでなければ。」

 笑顔で軽く手を振るバスカヴィルに、ヨハンは小さく会釈をした。それでは、とロベルトはヨハンの片手を握る。屋敷を出ていく二人の背中は、やがて夕焼けの向こうへと消えていった。


 * * *


 三人が高等学校に入学した頃、丁度社交界に一人の女子の姿が現れた。レイがその姿を初めて見たのは、父が主催したダンスパーティーのことである。美しい金髪に、サファイアのような青い瞳を湛えた彼女は、多くの男性に囲まれてしどろもどろになっていた。あどけなさをまだどこか残し、お転婆さが抜けきっていない少女である。レイは決して自分から声をかける柄ではなかったが、つかつかとその小さな人だかりに歩み寄ると紳士達と女子の間に割って入った。

「失礼、令嬢がお困りだ。」

 レイが右手を差し出すと、少女は縋るような目でその手を握った。ジャン達と初めて会った噴水まで連れて行くと、ちょうどそこで涼んでいたヨハンに少女を預けてシャンパンを取りに行く。帰ってくる頃にはジャンも来ていた。彼は珍しく焦った表情で少女を見つめている。

「お帰り、レイ。」

 人数分のグラスとシャンパンボトルを持ってきたレイにヨハンはそう告げる。グラスを受け取ってシャンパンを注ぐと、ヨハンは少女にグラスを渡した。全員に行き渡ったところで、ジャンが口を開く。

「ほんとどこに行っちまったかと思ったよ……。」

 詰めた襟を少し緩めて、ジャンは婦人用の扇子で顔を仰いでいる。月明かりで分かりづらかったが、ジャンの頬はすっかり火照っていた。状況がさっぱり読めず、レイはヨハンに目配せする。

「ジャンの妹だ。」

 紹介されると、少女は小さく会釈した。

「男にたかられてるところを助けてくれたんだろ? 今日が丁度社交界デビューなんだ。そりゃ目つけられて当然だわな。」

「たかられてるって、お前な……。」

 否定はしないが、とレイはシャンパンをあおった。夏の熱気のせいでかなりぬるくなっている。

「改めて紹介するよ。俺の妹、伯爵家長女のジャンヌだ。」

「初めまして。」

 ジャンヌはスパンコールの散りばめられた水色のドレスの裾を摘んで小さく屈んだ。

「こっちは俺の友人のレイとヨハンだ。」

 友人に紹介されて、二人は畏まったように会釈する。兄から扇子を受け取って、ジャンヌは二人を見上げながら言った。

「兄さんからよく話は聞いています。まだ社交界に出たばかりですが、これからよろしくお願いしますね。」

 朗らかに笑ったジャンヌに、レイとヨハンは思わず顔を見合わせた。


 * * *


 年間行事がない限り、彼らは毎日のようにだれかの屋敷で遊んだ。無論、ともに勉学にも大いに励んだ。三人は常に一緒にいたのである。多くの困難もあったが、彼らにはそれを乗り越えるだけの力があった。

「んでさー。進路なんだけどよー。俺のばっちゃは家督継げって言うんだけど、俺は! 絶対! 継ぎたく! ない!!」

 レイ達三人にとっては高等学校も終わる冬のことである。向かいで試験勉強に励むレイとヨハンを傍目にジャンは力説した。二人は聞いていない体を守って鉛筆を永遠と動かし続けている。胸を張っていたジャンは、やがてくよくよと背中を丸めた。

「なら継がなきゃいいだろ。」

 レイの冷たい言葉にヨハンは頷く。ジャンはさめざめと両手で顔を覆った。

「酷い! 冷たい! 俺達たったそれだけの関係だったのね!!」

「女々しい振りはやめろ。」

 吐き捨てるように言ったヨハンに、ジャンは魂が抜けたように背中を背もたれに預ける。二人が今勉学に励んでいるのは定期試験に向けてではない。一ヶ月後に控えた士官学校への権利試験に合格する為であった。

「ジャンは士官学校に行くつもりはないのか?」

 皇帝直属軍事機関”ROZEN”、帝國の持つ唯一にして最大の軍事力である。無論、帝國内では最難関の教育機関であった。まず、士官学校に入る為に入試を受けなくてはならない。そして、その前に受験者をふるいにかける為に、入試を受ける権利を獲得する為の権利試験が設置されていた。そこそこの学力で受けていいものではなかった。勿論、だれもが猛勉強し、だれもが受かる確信をして行くものだ。チャンスは人生でたったの一回、高校を卒業する年度の一月限りである。鉛筆をノートの上に転がし、すっかり冷めきった紅茶で喉を潤したレイは、踏ん反り返ってジャンに聞いた。ジャンは意味ありげにレイに顔を寄せると、きっぱりと言い張った。

「正直めっちゃ行きたい。だから頑張っておべんきょしてる。」

「ダメよ兄さん。もう長男なんだから、兄さんが家督継がなかったらだれが継ぐのよ。」

 手洗いから戻ってきたジャンヌはレイの部屋に入って早々、兄を激励した。口をへの字に曲げて不貞腐れたジャンから話を逸らし、レイはジャンヌへ問いかける。

「ジャンヌの将来は? まだ決めなくてもいい年頃だとは思うが。」

 彼女は高校入試の年であるが、まだそこまで切羽詰まった時期ではなかった。

「私は祭司になろうと思ってるの。」

 祭司、とは帝國内で多くの宗教行事を取り扱う聖職者のことであった。神官が皇族の為の聖職者と言うならば、祭司は民衆の為の聖職者である。男子は祭司になれなかった。祭司とは、この世で女子のみに許された最高の職業である。

「巷の女子はみんな祭司になりたいと言うな。」

「だって素敵よ? あの純白の真っ白いローブも素晴らしいし、見学で行っただけだけど建物もとっても綺麗なのよ。まさに花園だわ!」

 男ばかりでは共感は得られまい。レイもヨハンも、特にジャンに関しては夢みる乙女の姿を半眼で見つめていた。祭司は確かに美人が多い。しかし彼女達はあまりに気が強すぎた。結婚が許されているにも関わらず、そこらへんの男では高嶺の花である為に独身が多いのも確かである。

「まぁジャンヌは男勝りだし、一生独身なら俺も安心かな……。」

 そうぼやいた兄に、ジャンヌは机の下で肘鉄を食らわせる。呻いたジャンを一瞥して、レイとヨハンはため息を吐きながら再び鉛筆を手に取った。


 * * *


 一次試験の会場で、レイは最後の復習に励んでいた。自らのノートをじっくりと眺めながら、永遠にも感じられる試験までの時間を埋めている。段々と席が埋まっていく様子を傍目に、レイはパンを食べ終えて紙袋を鞄の中へ突っ込んだ。そして鉛筆の芯を確認していると、突然会場の外が騒々しくなった。何人かが扉の向こうを覗き込んでいる。他の教室で何か起こったのか、レイも少しばかり気になって外へ出た。教室へ入る青年達と野次馬の青年達で廊下はごったがえしている。レイは近くにいた青年に声をかけた。

「何があったんだ?」

「お貴族様が来たんだよ。」

 片眉を吊り上げたレイは、指差された場所に目を凝らす。今の時代、貴族が軍人になることはそうそうない事例であった。というよりも、普通は両親が許さないはずである。貴族の中から堅物がなる軍人が輩出されるなど階級の恥なのだ。

「ほら、あれだよあれ! 金髪の――」

 社交界によく出ていた青年達にとってはよく知った顔であり、そしてこの群衆の中ではおそらくレイが最もよく知っている人物であった。取り巻きの口々に上るその青年の瞳は、いつもとは違って非常に不機嫌そうである。レイは駆け出した。昨日、ジャンの口から、ここには来ない、と聞いたばかりであったのに、なぜ彼はここにいるのか、直に問いただす必要があった。しかし、レイが彼に向かい合うより前にジャンの前に既に一人の青年が立っていた。金髪碧眼の、まるで中世騎士物語から抜け出したような美形の青年であった。

「へぇ、伯爵家のぼんぼんがこんなところに何の用だ?」

 薄笑いを浮かべている青年は、顎を上げて苦々しい表情を浮かべるジャンにそう振る。

「俺がどこに行こうがお前に関係ないね。お前こそなんだ? 試験勉強しなくて大丈夫なのか?」

 ジャンの言葉で青年の表情が消え失せる。

「僕はお前と違って幼い頃から叩き込まれてるんだ。お前こそ開始時間五分前に来るなんて、貴族のくせに大丈夫なのか?」

 どうやら軍配は青年の方に上がったらしい。辺りの雰囲気ですっかり忍耐が擦り切れていたジャンは、そのまま一歩踏み出して青年に殴りかかろうとした。しかし、その一歩手前で彼の腕を一人の青年が掴んだ。ヨハンである。

「煽るのはやめろジークフリート。お前もただじゃ済まないだろう。」

「お貴族様は受け流すのが得意かと思ってたけど違ったみたいだな。ヨハンの前世のよしみで許してやるよ、お坊っちゃま。」

 ジークフリートと呼ばれた青年が背を向けて立ち去ると、辺りの緊張状態は緩和された。友人への疑問をすっかり忘れて、レイはジャンとヨハンの元へ駆け寄る。

「大丈夫か二人とも。」

 嘘をついた二人の友人に顔向けができなかったのか、ジャンは表情が見えないように俯いたまま自分の試験会場の教室へ入っていった。レイはそれをただただ見送った後、隣に立っていたヨハンに目をやる。

「ヨハン……?」

 もう一人の友人は、ジャンの背中から少し逸れた所を見ていた。髪と同じ、黒に近い藍色の瞳を揺らし、ほとんど動いていないにも関わらず額には汗が浮いている。恐る恐る肩を掴んで、レイは友人を揺さぶった。

「ヨハン、お前気分でも悪いのか?」

 我に帰ったようにヨハンは目を見開く。隣に立っていたレイに初めて気付いたのか、その姿をまじまじと見つめると、やがてぎこちなく頷いてその場をよろよろと立ち去っていった。


 前世とは、この世に生を受ける前に終えた人生のことである。帝國に住む彼らは、必ず一つ生を終えてここに生まれてくる。例外は一つとしてなく、幼い時から前世の記憶は持っているものだった。だれにも等しく、例えどんなに幸せな人生であったとしても、どんなに苦しい人生であったとしても。そして、それを人に話すかどうかは、彼らの意思のままである。


 * * *


 結果発表の場で、レイとヨハンとジャンは久しぶりに一堂に会した。試験当日から一週間が過ぎていた。

「俺、勘当されたんだ。」

 受付で受験者の名前が呼ばれる中で、ジャンは二人にそう打ち明けた。

「どうしても士官学校に入りたいんだっつったらさー、親父の奴、あんな頭の固い職業についてどうするんだ、ってよ。俺は頭の硬くない軍人を今までずっと見てきたから、そういう職業じゃないって言ったら案の定口論だよ。最終的には試験に行ったら勘当だってさ。喜んで行ってやったよ。ジャンヌは泣いてたけど。」

 名前を呼ばれて受付に走ったヨハンを眺めながら、レイはジャンに言う。

「貴族のままだったら生活も安定してただろ。金もあるだろうし、きっと普通に結婚して幸せになれたはずだ。別に士官学校に入らなくたって俺達とはいつでも会えるだろ?」

 ジャンは目を丸くした。そして、すぐに赤い鼻を鳴らして朗らかに笑う。

「なーに言ってんだよ。俺がいなかったら今頃お前ら一人ぼっちだろ? 俺がいなくてやってけんのかよ二人共。」

 ヨハンが帰ってくる頃にはジャンの名前が呼ばれた。入れ違いで駆けていくジャンを見送って、ヨハンは封筒の中の書類を確かめる。

「どうだった?」

「受かった。」

 合格書類を見せるヨハンは珍しく満足げに笑った。一通り合格書類を眺めたレイは、それを返しながら封筒を受け取ったジャンを見やる。どうやら合格したようだ。封筒を大手に振りながら駆け寄ってきた。

「ジャンがいなかったら、俺達今頃どうなってただろうな。」

 ヨハンは沈黙を守る。やがてジャンが大はしゃぎで書類を二人に見せている中、レイが呼ばれた。応援する二人に手を振って、レイは受付へ悠々と歩いていく。

「レイさんですね?」

「そうです。」

 受付の軍人が封筒を差し出した。

「入試権利獲得おめでとうございます。提出書類に関しては全て同封してある紙に印刷されているのでしっかりと目を通して、期日までの記入と提出をお願いします。郵送は当日消印です、間違いのないようお願いします。」

「ありがとうございます。」

 たった数分で待ちくたびれたジャンは、レイが戻ってくるや否や封筒の中身をせっついた。合格書類をちらりと見せただけで、ジャンはまるで自分のことのように、いやそれ以上に喜ぶ。

「次の本試も三人で受かろうな!」

 ジャンは二人の肩に両腕を回した。思わず封筒を落としそうになったが、レイは慌てて封筒を強く掴んでそれを回避する。

「そういやこの間、ケーキの美味しい店を見つけたんだ。食べて帰ろうよ!」

「能天気だなお前、帰って勉強するぞ……。」

「買って俺の家で食べていけばいい。せっかく合格したんだ、うちの親父にもなにか買って帰ろう。」

 呆れたヨハンにレイは笑って答えた。もしバスカヴィルがいなければ、この三人は今頃こうして肩を組んで帰ることはなかっただろう。ジャンは喜んだ。

「よっしゃ、三人で割り勘して買って帰ろう!」


 * * *


 入学式は一、二年で使う学舎で開かれる。満開の桜の花が、士官生の制服に落ちていった。レイは辺りを見回しながら歩みを進める。ふと見慣れた人影を見て、その背中へ駆け寄った。

「ロベルトさん。」

 声をかけると、ヨハンとは対照的な赤褐色の髪を持った男が振り返る。ロベルトであった。新品の制服に身を包んだレイをじっと見つめて、彼は口を開く。

「入試、頑張ったな。スピーチは?」

 手に握っていた原稿を無言で渡し、ロベルトは狼のようなその鋭い瞳でそれをざっと読み流した。バスカヴィルに何度も添削してもらいながらやっと完成させたそのスピーチ原稿を、ロベルトはレイに返す。

「上出来だ。壇上でも話せるな?」

「はい、父上やヨハン達の前で何度も練習しましたから。」

 満面の笑みで力強く頷くレイを見て、ロベルトも頷いた。


 晴れ晴れしい入学式は成功に終わった。レイ、ジャン、ヨハンはだれ一人落ちることなく、軍人への道を歩み始めたのである。

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