第1章 革命前ー1「ヨーロッパ世界」

写真は、ルソー

まず、年表を見て貰おう。

1649 イギリス・清教徒革命
1688 名誉革命1689 イギリスで権利章典公布
1760 イギリスの産業革命(~1840)
1762 ルソーが『民約論』を著す。
1765 イギリスのワットが蒸気機関を改良
1775 アメリカ独立戦争(~1783)
1776 アダム・スミス『諸国民の富』
1789 フランス革命勃発
ワシントン初代大統領、就任

革命が起きた1789年は、日本では江戸時代で、天明の大飢饉がおさまり、寛政の改革が始まった頃だ。どちらも、人口は2500万人ぐらい、江戸の人口は100万、パリの人口は70万ぐらいとされる。フランスはまだ産業革命が始まっていない農業国であった。ひとたび、天候不順や、自然災害があれば人々は飢えに苦しめられていたことには変わりがない。

1 【絶対王政】
16~18世紀のヨーロッパは絶対王政のもとにあった。封建社会から近代社会への過渡期、主権国家形成期に君主が絶対的な権力を行使した政治体制を絶対王政と云う。権力の依存基盤は、封建領主層(貴族、上位聖職者)と新たに台頭して来た有産市民層(ブルジョワ)であった。前者は免税特権などを認めてもらい、国王権力を支える官僚や軍人となった人びとであり、後者は商業上の独占権などを保証してもらった人びとであった。
これらの上位身分に支えられ、国王は官僚組織と常備軍制度をもって「国民」を一元的に直接統治した。フランス国王ルイ14世(在位 1643~1715)が言ったとされる「朕は国家なり」は、絶対主義王制を象徴する言葉として知られる。

2 【啓蒙思想】
フランス革命ほど徹底したものではなかったが、イギリスはいち早く市民革命を成し遂げていた。清教徒革命、では、王は処刑され、一時的ではあったが共和政体となった。名誉革命は議会の権力が国王の権力より優先することを認めさせた革命であった。ここにイギリスは立憲君主制を確立し、産業革命に入っていく。この名誉革命に理論的根拠を与えたのが、ロックの社会契約論であった。

社会契約論とは、「自然権(生命・自由・財産)」を守るためには、それぞれの個人が国家との契約を認めることで「自然権」を国家にゆずり,国家は契約に基づいて個々人からゆずられた「自然権」を守る義務を持つとする。もし国家がこの契約義務を果たさない時は、政府を倒して新しい政府を選びなおすことができる「抵抗権(革命権)」を持つ」としたものである。彼の契約論はフランスの啓蒙思想家に影響を与える。

ルソーの民約論(社会契約論)は、根源的な人間の自由のあり方を問い、国家の主権は国民にありと謳い、共和政を理想としたが、読む者にとっては、法のもとにおかれた立憲君主制までは否定していないと読めた。モンテスキューは『法の精神』で絶対王政を批判し、具体的な権力の在り方を三権分立論として展開した。ヴォルテールは名誉革命時にイギリスに滞在していて、イギリスの議会政治や政党政治に触れ、フランスのブルボン王朝の絶対王政を批判した。
当然、王権神授説に立つ絶対王政が認めるところではなかったが、貴族や教会の特権をおさえ、近代化を図るためには啓蒙思想を取り入れた「上からの改革」を考えるようになっていった。ヴォルテールを自国に招いたプロイセンのフリードリヒ2世や、ロシアの女帝エカチェリーナ2世、オーストリアのヨーゼフ2世ら、当時の君主は啓蒙君主であった。ただし上に専制がついた。おのずから、上からの改革には当然限界があった。

3 【重商主義】
絶対王政がとった経済政策は『重商主義』と言われるものであった。絶対王政のもとで官僚や軍隊の給与、宮廷生活の維持などの財源が必要となった国王が、商業を重視して国家統制を加え、あるいは特権的な商人を保護することによって富を得ようとした。重商主義には、金銀の獲得を主とする重金主義(スペイン・ポルトガル)という最初の形態から、輸出を増大させ輸入を抑えてその差額を得る貿易差額主義(フランス)に移行し、さらに国内の産業の保護育成に力を入れる産業保護主義(イギリス)という形態の違いがある。いずれもそれをささえたのが植民地であった。

重商主義に対する批判として登場したのが、アダム・スミスの『国富論』であった。
重商主義の保護政策は、結局経済の発展を阻害するもので、「見えざる手」経済の自由放任こそが富を生むとしたもので、産業革命期に入ったイギリスの現状を踏まえたもので、さらなる経済発展に寄与した。

4 【五大国体制】
フランス革命前夜のヨーロッパは、五大国体制(オーストリア・プロイセン、ロシア、フランス、イギリス)にあった。絶対王政で先行し、海外植民地を分けあったスペイン、ポルトガルは凋落にあり、いち早く市民革命をなしとげ、産業革命期に入り、工業国として抜きんでてきたイギリス、大陸において最大の人口を持ち、海外にイギリスに次ぐ植民地を持つフランス、中世以来ヨーロッパの中心勢力であったハプスブルク家が支配するオーストリア、台頭著しい国力をつけてきて、ドイツの統一を担おうとするプロイセンの5大国がその勢力を競った。
領土拡張を画策しては、時には敵対し、時には政略結婚で連合し、国王の後継を巡っては継承戦争を起こし、連合追随の定まらぬ状態にあった。海外に於いてはイギリスとフランスは、激しい植民地争奪戦争の状態にあった。遅れてきた、プロイセンやロシアはおりあらば、そこに割り込もうとしていた。当時、世界とはヨーロッパであり、ヨーロッパとはこの5か国を意味した。

5 【啓蒙専制君主】
プロイセンのフリードリヒ2世は、典型的な啓蒙専制君主として上からの改革を進め、ヴォルテールを招いて開明的な施策を採る一方、軍隊の強化に努めて周辺諸国との戦争を重ね、領地を拡大した。まずマリア・テレジアのハプスブルク家督相続に異議を唱えてオーストリア継承戦争を行って、シュレージェンを奪い、その結果、オーストリアとフランスが手を結ぶ外交革命となってプロイセンは孤立したが、七年戦争でかろうじて勝利して、プロイセン王国はフランス、イギリスに続くヨーロッパの大国となった。また、ポーランド分割に加わり、東方への領土拡大に成功した。
ポーランド分割に加わったのが、ロシア・ロマノフ朝の女帝エカチェリーナ2世である。南下政策を具体化してロシア・トルコ戦争を開始し、クリム・ハン国を併合し、クリミア半島を領有した。啓蒙専制君主としてロシアの強大化を推進した。

マリア・テレジアが亡くなった後のヨーゼフ2世も啓蒙専制君主として名が挙げられる。ヨーゼフ2世の妹がフランスのルイ16世に嫁いだマリ・アントワネットである。ロシア、プロシア、オーストリアの専制君主らは、イギリス、フランスなどの先進地域に対抗することを意識し、国家の発展を産業や貿易の振興、軍事力の強化などによって図ろうとした。それに必要な技術を取り入れ、国家機構の一定の「上からの改革」によって近代化を図るため啓蒙思想に学び、旧来の王権神授説に代わる統治理念としようとしたのである。フリードリヒ2世が言ったという「君主は国家第一の僕(しもべ)」が、啓蒙専制主義の理念を端的に言い表している。

人物:マリア・テレジア(1717-1780)
神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、二人は当時としてめずらしい恋愛結婚であった。ヨーゼフ2世、マリ・アントワネットの母として、また女性であるから帝位にはつけなかったが、実質女帝としてオーストリアを切り盛りした。
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