1

 

 雨は突然降り出し、一気にその勢いを増し地面を猛烈に叩いた。つい先ほどまで青空が広がっていた7月15日の東京都心は、昼過ぎから大気の状態が不安定になり突如巨大な積乱雲が発生、上空はその黒雲にすべて覆い尽くされた。地上を襲ったものすごい豪雨は都心各地に及び、気象庁はゲリラ豪雨の発生を報じた。この豪雨が数時間に渡って続きそうな可能性があるとした予報を受けて、テレビ、ラジオ、ネットは十分な警戒と対策を緊急に呼びかけた。

 豪雨は発生して1時間で80㎜に達するような膨大な降水量となり、地下に流れ込んだ雨水は地下道、地下駐車場などに溢れ出した。地下鉄では浸水が起こり、低地の道路では冠水するところも見られ都心の交通網が寸断され始めた。

 羽田空港ターミナルもこの豪雨で航空機の発着は午後1時を境に全面ストップ、モノレール、ゆりかもめなどの空港へのアクセスもすべてストップしていた。この日の午後のフライト予定だった客は航空会社搭乗手続きカウンターのスタッフに詰め寄り、運行再開の見通しや今後の代替便についての情報を聞き出そうと混乱が続いた。そして客はテレビモニターの前に群がり都心各地の状況の中継に目を凝らし、ネットで気象庁の情報をチェックしたり、携帯、スマホのメールやSNSでリアルタイムの情報を送り合っていた。しかし人々がどんなに詳細な情報を得たとしても、この羽田空港ターミナル自体が機能不全状態に陥っていて、どうすることもできないことに変わりはなかった。

 午後1時30分、藤井真紀は空港第一旅客ターミナル2階の南ウイング出発ロビーにいた。真紀はゲートラウンジ3の辺りの後ろの壁際に立ち、横にずっと連なるパノラマのような窓ガラスに一斉に流れ落ちる雨と騒然としている周囲の人々の様子を見渡しながらスマホを手にした。

「ああ、ニュース見た?・・・そう、ほんとうにすごい雨!ゲリラ豪雨って言ってる。これじゃ多分駄目ね・・・。うん、明日直接三原の方に入って、夜広島に行くようにするから・・・。そうね、明日飛べばだけど。なんて、ゲリラはずっとは続かないでしょ・・・。うん、ありがとう、はっきりしたら連絡入れる。じゃあね」

真紀は今夜広島で会うはずだった友だちに連絡を入れ、約束を明日に変更してもらった。午前中に飛んでいればもう向こうに着いていて、こんな異常気象には遭わなかったかと思いながら、真紀はまたスマホを操作して電話をかけた。

「藤井と申します。はい、今日15日の予約でそちらに入る予定だったんですが、東京がすごい豪雨で・・・。ええ、全便欠航になってしまって、もう今日は・・・。明日は取れますか・・・?はい、お願いします。状況でまた連絡入れますので・・・」

 今夜一泊するはずだった広島のホテルにこの状況を伝え明日の予約を入れ直した真紀は、そういえば今日のキャンセル分はどうなるのだろうと思った。これだけの突発的な自然災害で影響は避けられないことなのだから予約キャンセル料は発生しないとも考えられるが、遠く離れた広島のホテルには東京で何が起ころうと関係のないことでキャンセルはキャンセルとして事務的に処理されるものとも言える。まあどちらにしてももう一度確認の電話するほどのことでもない。それよりもあと一本連絡を入れておかなければいけないところがあると、真紀はスマホに指を伸ばした。

 するとすぐ近くで何やらピョン、ピョン、と電子音が鳴っていることに真紀は気づいた。目をやると横に小さな男の子が壁を背に座っていて、手にしたゲームをやっている。真紀は黄色いTシャツを着たその男の子の横顔をのぞいた。もしかして・・・。ゲーム画面を一心に見つめている男の子の目は黒く澄んでいた。あの時、公園で会った子・・・。真紀はしゃがんで、男の子に声をかけた。

「こんにちは」

男の子はゲームに熱中していて真紀に気がつかない。真紀は大きな声でゆっくりと言った。

「こんにちは!」

男の子が顔を上げた。真紀と目は合ったが、その目に表情はあらわれなかった。

「覚えてる?前に公園で会ったの」

自分の顔を指差して真紀は言った。そして真紀は首をすくめ体を丸める格好をした。

「公園で、アルマジロ、見たよね」

真紀の言葉に、男の子の黒く澄んだ目が動いた。

 その時、白いTシャツにジーンズ、青いリュックを肩にした若い女性がスマホで話しながら男の子の横にやってきた。

「あ、希さん?紗英です!もう東京が、とんでもない豪雨なんです!・・・はい、これじゃあ飛行機飛べないので・・・。いやあ、ちょっと分からないですね、この様子じゃあ・・・。あ、陸は大丈夫ですから・・・」

女性は手に持っていたカップアイスを男の子に差し出した。男の子はゲームをやめてカップアイスをもらい、フタを取ってヘラをアイスに突き立てる。女性は肩からリュックを床に降ろした。

「・・・はい、すみません、状況でまた電話します・・・。ふう、もう店が人でいっぱい!みんな何か買い込もうとしてるの。こんな豪雨でどうなるか分かんないからって・・・」

電話を終えて、男の子に向かってしゃべり出した女性が、横にいる真紀の存在に気づいた。若い女性はすぐに探るような表情で真紀に聞いた。

「あ、すいません、この子が何か・・・、しましたか?」

女性は黒髪のショートカットで、大きな目が目立つ可愛い顔をしている。歳は二十代前半か、まだ学生かもしれない。そう思いながら真紀は首を振って笑顔で応えた。

「いえ。あの、すみません。この子と前に会ったことがあって・・・」

「えっ、そうなんですか?陸、会ったことあるの?」

若い女性が男の子と真紀の顔を交互に見ると、男の子はアイスをすくったヘラを口に入れたままこくりとうなずいた。若い女性が男の子に聞く。

「どこで?」

男の子が口を開かないので、真紀が言った。

「世田谷の二子玉川の方の、公園です」

「二子玉川の公園で・・・?」

若い女性の大きな目が真紀を見て止まった。真紀が説明を加えた。

「二子玉川の方の、大学のそばの公園で会ったんです」

「あの、大学って、上野毛の美大ですか?あの辺に住んでいらっしゃるんですか?」

「ええ、まあ近くです。そちらも?」

「はい!あの公園のすぐ裏手の方に・・・。いや、住んでいましたって言った方がいいのかな。でもすごい偶然ですね!こんなところで、それもこんな豪雨で・・・。あ、この子、陸って言います」

若い女性は連れの男の子と見知らぬ女性の再会にとても驚きながら、男の子の頭に手をやって紹介した。真紀は男の子の顔をのぞきながら言った。

「そっか、ぼくは陸くんっていうんだ」

「ほら、陸。ちゃんとあいさつしてよ。お姉さんと公園で会ったんでしょ」

男の子、陸は黙ってアイスをすくって食べている。

「そう言っていながら、大人があいさつできないようじゃあしょうがないか。すみません、わたし、真田紗英っていいます」

「藤井真紀といいます。ここで、また陸くんに会えるなんて、びっくりです」

若い女性紗英の自己紹介に真紀も名乗った。またきっと会えると思っていた男の子陸との再会が、今日、この豪雨の空港とは・・・、たしかにすごい偶然だと真紀は思った。




        2

 

 公園に着いてベンチに座った真紀は、周りの木々の鮮やかな新緑に目をやりながら思った。あれほどたくさん咲いてそして一気に散ったつい半月前の桜の花びらは、いったいどこへ消えてしまったのか。土に還るといっても、ほとんどの地面がアスファルトの都会ではそうもいかないだろう。すべての花びらが道路脇の排水溝に落ちていくとも思えなかったが、相当数の花びらはその溝内に入り込んで、そして川に入って果ては遠く海へと流れ着いているのかもしれない。自然はこんな都会の中からでも人知れず、また自然に還っている。

 真紀は一年前の大震災、津波による原発の事故で放出されてしまった放射能はどうなのかと思った。どんなに微量であっても消滅しない、自然に還ることのない放射能・・・。ここの公園は明るい陽の光を受けていて、関東圏の山や川などの自然の一部が侵されているとはどうしてもイメージしづらく、環境に与える影響を想像することができない。人間は目に見えない、聞こえない、においがしないなどの体で感知できないものにはほんとうに無力だと真紀はあらためて思った。それは自分の身体の内側で密かに起きていることにも言えることだった。それが、今自然環境にある放射能と同じく、身体の外に除去しきれないものだったら・・・。真紀は悪い考えを打ち消すように空を見上げた。風はほとんどなくそこに座っているだけでも少し汗ばむような陽気に、真紀はトートバッグからペットボトルの水を取り出しごくりと一口飲み、乾いた口を潤した。

 

 真紀はふと公園の入り口に目をやった。小さな男の子が一人、小走りで入ってきた。青いTシャツを着たその子は真っ直ぐブランコの方に向かっていく。男の子は二つあるブランコの手前の方に着いた。

 その時、公園の入り口から小学3、4年くらいの数人の男の子たちが大声を出しながらブランコ目指して走ってきた。先頭でブランコに着いた男の子が、鎖に手をかけた小さな男の子の横から強引に体を割り込ませ鎖を握った。押された小さな男の子は横にどけるしかなかった。

 ブランコに飛び乗り漕ぎ出した男の子は、いぇーい!と声を張り上げた。もう一つのブランコにも次に着いた男の子が飛び乗り漕ぎ始める。遅れて来た男の子たちが、ブランコの周りを囲み次!次!と声を上げた。前へ後ろへと男の子たちが漕いで動くブランコを、横取りされた小さな男の子は、ただじっと目で追っていた。

 手前のブランコから男の子が飛び降りたので、小さな男の子は手を伸ばしていったが、すぐに次の男の子が揺れるブランコの鎖をつかんで飛び乗った。小さな男の子は横に立っているしかなかった。

 一人の男の子が、小さな男の子の体を手で押しながら言った。

「どけよ!」

その声でみんなが小さな男の子を見て次々と声をあげる。

「じゃまだな、そいつ!」

「あっちいってろ」

「俺たちのブランコには乗せないぞ!」

大声で縄張り宣言をする男の子に胸を小突かれ、小さな男の子が後ずさった。

 真紀は見かねてベンチを立ってブランコの方に歩きながら言った。

「公園はみんなのものよ。その子も乗せてあげて」

男の子たちは一斉に真紀の方を振り向き、ブランコの乗っている二人は飛び降りて、みんな無言で向こうのジャングルジムの方へ走っていった。

 小さな男の子はブランコの前に立ったままだった。真紀はブランコの鎖に手をかけた。冷たい手ざわりと鉄の匂いがして、子どもの頃の感覚が一瞬よみがえる。真紀は男の子に声をかけた。

「みんなで遊ぶものなのにね」

男の子は黙っていた。青いTシャツの胸には恐竜のかわいいキャラクターが描かれていた。

 

 「よかったら食べる?」

真紀は男の子とベンチに座り、トートバッグからキャンディーを一つ取り出して男の子に差し出した。男の子は黙ったままそれを手にした。

 この辺に住んでるの?お名前は?真紀が聞いても男の子は何も答えなかった。いくつ?小学生?男の子はただじっと、おとなしくしていた。もしかしたら何か問題がある子なのかもしれないと真紀は思った。子どもはみんな元気だと思い込んではいけない。見た目だけはわからない、それぞれに様々なことを抱えている子がいて、周りがそれに気づかないことがある。性格的にはもちろんいろんな子がいるし、両親との関係や家庭環境に問題があってストレスを抱えていたり、肉体的、精神的な病気や障がいを持った子もいる。子どもはそれを外に向かってあらわすことや訴えることがうまくできない。真紀は仕事を通してそのことを知り、学んだ。その上で真紀は今この子にどうアプローチするといいのだろうと考えた。

 真紀は今仕事の題材の資料を持っていることに気づき、それを見せてみようと思った。この子がどんな反応を示してくれるか・・・。

「ねえ、珍しい動物の本があるんだけど、ちょっと見てくれる?」

真紀の声かけに男の子が顔を上げた。真紀の手がトートバッグに入る。真紀は男の子に笑顔を向け、一冊の本を取り出した。

「これ!おもしろ動物図鑑!世界中のおもしろい動物がいろいろ出てるの。それでね、えーっと・・・」

真紀は図書館で借りてきたおもしろ動物図鑑を膝に乗せて、付箋を着けたページを開いた。

「これ、見て!」

真紀がある動物の写真を指差した。男の子が体を少し乗り出してその動物に目をやった。

「アルマジロっていうの。ねずみにちょっと似てるかなあ。でもね、このアルマジロの背中は、とっても固いこうらみたいになってるの。わかる?こうら。かめさんみたいな」

 男の子は真紀の問いに答えずに、明るい茶色っぽい色をしたアルマジロの写真を見ていた。真紀はその下の写真の、丸いボールのようなものを指差した。

「それでね、このアルマジロのおもしろいところは、固いこうらみたいな背中をくるっと丸めて、手足も頭も引っ込めてボールみたいになっちゃうの、こんな風に!」

男の子はボールになったアルマジロをじっと見た。

「面白いでしょう、アルマジロ!私、このアルマジロの、お話を作ろうと思ってるの」

男の子が顔を上げ、黒く輝く目で真紀を見た。

 真紀は絵本作家で、子どものためのお話、物語を作ることを仕事としていた。絵の方は出版社のもとでその物語に合う画家やイラストレーターに描いてもらう形をとっている。偶然なことから書き始めるようになった作家業も、気づけばもう十年という歳月が経っていた。真紀は最初小さな児童出版の会社に編集者として勤めていたが、自分の書いた話が担当していた絵本作家の目にとまり、会社に推薦してもらったところそれが認められ絵本になるという、ラッキーなデビューを果たした。それから真紀は正式に作家として採用され、以来一年に一、二本の新しい作品を作ってきた。

 真紀は最近ある雑誌に載っていたアルマジロの写真と解説を見て、こうらのような固い背中、ボールのように丸まって周囲の敵の攻撃などを防ぐところなど、その珍しい姿かたちや生態に興味を持ち、このアルマジロで何かお話ができないかと思っていたものだった。

 真紀は笑顔で男の子を見て、あらためて聞いてみた。

「ボク、お名前は・・・?小学生かな?」

男の子は下を向き、ゆっくり顔を上げた。真紀にはその動作がうなずいたようにも見えた。

「そっか、小学生なんだ」

男の子は何も答えなかった。でもコミュニケーションは取れている、と真紀は思った。男の子はまだひと言も言葉を口にしていないが、こちらの言ったことはちゃんと理解してくれている。

「アルマジロのお話はね、これからだんだん考えていくから、また今度会った時にするね」

 真紀の言葉に男の子は急にベンチから立ち上がった。そしてくるりと背を向けて駆け出した。

「またね!また今度!」

真紀は公園の出口に向かって走っていく小さな青いTシャツの後ろ姿に声をおくった。

 あの子とはきっとまた会える。また今度、この公園で。それともまた今度、違うどこかで・・・。何故だか分からないが、真紀はたしかに、そう思った。

 

 真紀は公園を出て脇の通りを歩いた。空がどんなに青く晴れ渡っていても、あの見えない放射能のように、真紀の心の奥には消えない不安が影を落としていた。それは自分の体の内側で密かに起きていて、自分ではどうすることもできないこと・・・。真紀は病を患っていた。それは女性特有のガンだった。人から言われたことで重い腰を上げ受けていた定期検診で、今月返ってきたのはまったく予期しなかった要再検診の知らせだった。大丈夫、これまで何もなかったし、今もどこにも違和感はない。だから突然、何か悪くなったものがあるはずがないと自分に言い聞かせたが、再検診のエコーの結果でそれは確かなものとなった。もう逃げることはできなかった。医者は早期発見と言ったが、乳ガンであることに変わりはない。40歳を過ぎて自分に起きた、何かの間違いでもないその明白な事実に、真紀は強いショックを受けた。

 私がガンになるなんて・・・。何故、どうしてと真紀は自問を繰り返した。家系にガンになった人はなく遺伝ではない。原因となるようなものも考えられない。運が悪いというひと言では到底納得などできなかった。何故、どうして私が・・・。わだかまりは続き頭の中の混乱はおさまらないまま、入院は明日に迫っていた。世間ではもうすぐゴールデンウィークを迎えるが、自分の手術はその最中、入院から五日後の予定だった。手術をすれば、その小さな患部を除去すれば完治すると医者は言う。でも除去しても、また再発してしまったら・・・。どこか他に転移してしまったら・・・。

 真紀は気持ちを切り替えようと思った。嫌なことや悪いことより、何か良いこと、良いことがありそうな先のことを考えよう。すぐに思い浮かんできたのは、今会った小さな男の子だった。そうだ、アルマジロの話は、あの子のために考えよう。アルマジロの名前は、アル。アルマジロのアル。アルに何が起こるのか、これからアルはどうなっていくのかな・・・。 

 その時、真紀の頭の中にあの小さな男の子の黒く澄んだ目が映った。

“どうしてぼくはここにいるんだろう”

頭の中に言葉が響いた。ああ、お話の始まりに来るのはこの言葉、と真紀は感じた。

 

 真紀は横断歩道の前に来た。歩行者用の信号は赤だったが、直線の車道の右からも左からも車が来る様子はまったくなかった。渡ってしまえばいいのに。しかし真紀はそこに立ち止まって横断歩道の白線を見た。これから私にいったい何が起こるのだろう。そして私はこれからどうやって生きていくのだろう・・・。自分でもわからない自分の未来は、まるでこれから考えるアルマジロのアルのお話のようだと真紀は思った。白線から目を上げると、信号がちょうど赤から青に変わった。周りに人も車もいない小さな横断歩道を、真紀はゆっくりと渡った。




       3

 

 午後2時20分。都心のゲリラ豪雨は降り始めて2時間近くが経過しようとしてもその勢いはまったく衰えることなく、下水管などの排水処理能力の限界を超えて至る所で被害をもたらし始めた。道路ではマンホールから水が逆流し始め冠水状態となっている所が出ていた。気象庁によるとその降雨量は1時間80㎜から100㎜に達しようとしていて、都心を流れる目黒川、神田川など河川の水位上昇も著しく各区で大雨洪水警報が発令されていた。

 

 空港南ウイングの出発ロビーを取り巻く窓ガラスは、全面夜のように暗く、降り続く豪雨の作る波のような模様が上から下へ絶え間なく流れ続けていた。

 真紀と紗英と陸は、そこに留まることしかできない大勢の客とともに長く連なった椅子に座っていた。紗英が窓を見たまま横の真紀に言った。

「これはもうほんとに、雨なんてものじゃないですよね。バケツをひっくり返したようなってよく言うけど、そんなレベルじゃない、まるでナイアガラの滝じゃないですか!こんなの生まれて初めて!」

「ええ。梅雨明け宣言もまだで、それも影響してるのかもしれないですね。このままだとここに泊まることになるかな。停電にならなきゃいいけど・・・」

真紀の言葉に紗英は大きくうなずき、ゲームをしている陸に電池がなくなるから休み休みにやってと言ってから、真紀に顔を向けた。

「そうですよね!電車もモノレールもバスも全部ダメなんだから、ここから出られないし、どこへも行けない。豪雨がこのまま3時間も4時間も続けば、たとえ止んだとしても復旧に手間取って・・・。だめだ、今夜はここで泊まりだ。もう午前中買い物にあてないで飛んでいれば良かった・・・、と後悔しても後の祭りか!ね、陸、あとでみんなにお話ができるよ、ゲリラにやられて羽田空港に泊まったって」

 空港から一歩も出ることができず、今日の一夜をこの場で過ごさなければいけないこと。その負の可能性は刻々と高くなっていた。ロビーには不安の中にも諦めの空気が漂い、妙な落ち着きを取り戻した人々がどうすることもできない時間をただやり過ごしていた。そんな中、出張のサラリーマン同士、あるいはお互い家族連れなどのコミュニケーションがあちらこちらで交わされ始めていた。

 ここは、主にJALの関西や九州など日本の西や南方面へ飛ぶ便のロビーで、真紀も広島行きに乗るためにここにいた。周りに目をやっていた真紀が、そういえばこの二人はと思い、紗英に行き先を聞いてみた。

「あの、失礼ですが、どちらまで行かれるんですか?」

「あ、まだ言ってませんでした。わたしたち、沖縄に行くんです」

「沖縄ですか。この海の日連休で?」

沖縄ということは、紗英と陸は姉と歳の離れた弟で、姉弟で早めの夏の旅行かなと真紀は思った。この7月14日、15日は土日で、16日の月曜が7月第3月曜日、“海の日”の祝日となっていて、夏の入り口の3連休になっていた。真紀の想像を知って知らずか、紗英が言葉を続けた。

「昨日、14日土曜は予約一杯でした。それで、あの、正確に言うと沖縄に行くんじゃなくて、沖縄に住むんです」

そう明るく言い直した紗英の、住むという言葉に、真紀は紗英と陸の関係が分からなくなった。住むということはこの二人は、親子なのだろうか。

「わたし、沖縄が大好きなんです。学生の時は夏休み冬休み、沖縄に行ってました」

「そうなんですか」

「日本なんだけど、日本じゃないですよね、沖縄って。こっちのキチキチしたところがなくて、開放的で、ゆとりがあって、とにかく海がきれいで!あ、すみません、いきなり自分の話しちゃって、ごめんなさい」

紗英が頭を下げたので真紀は首を振り、この人は学生ではないことが分かったところでさらに二人のことを知ろうと問いかけた。

「いえ、あの、沖縄に住むって・・・?」

「陸はわたしの甥っ子なんです。わたしたち、これから沖縄に住むんです」

紗英が陸の肩に手をかけながら言った。二人の関係がやっと分かった。そして叔母と甥の二人が一緒に住む、それも沖縄に行って・・・、という普通にはないことに何か事情があるということも。

「そうなんですか。陸くんと・・・」

真紀はそれ以上立ち入ったことを聞くのを控え、陸を見て微笑んだ。

「あの時言ってた、アルマジロのお話、しないとね。」

真紀の言葉に陸が振り向いた。紗英が興味津々の顔で陸と真紀の顔を交互に見た。

「なになに、二人だけの話?」

「陸くんと約束したんです。今度会った時に、アルマジロのお話するねって」

「え、アルマジロ・・・?アルマジロって・・・、どっかで聞いたな」

すると陸が急に立ち上がった。黄色いTシャツの胸についている魚のイラストがくるりと回り、背中を見せたと思うと、陸はいきなり向こうに走り出した。

「ちょっと陸どこいくの、トイレ?あ、すみません、たぶんトイレだと思います。ちょっと行ってきます!」

紗英があわてて立ち上がった。陸が小走りで向こうへ行く。真紀はその後ろ姿を見て、あの時、公園を出ていった陸を思い出す。そして、あの子とはきっとまた会えると思ったことが、こんな豪雨の中の羽田空港で果される偶然に驚いた。この偶然は午前中の便で飛んでいれば起きなかった。午後になったのは、アルマジロのお話に関わる打ち合わせが急に入ったからだった。それはこのお話の絵を描いてくれる人との初めての顔合わせだった。

 「ごめんね藤井さん、日曜だっていうのに。私が明日から一週間取材で出張になっちゃってさ、その前に会っておいてもらおうと急に思い立ったというわけです。こちらが小暮彩さん。アルマジロのお話、この人に描いてもらおうと思うの」

7月15日午前10時、神楽坂にある出版社の一室で、黒いシャツにベージュのパンツのスレンダーな小坂女史が、とても小柄な若い女性を真紀に紹介した。

「はじめまして、小暮です。よろしくお願いします」

「藤井です。よろしくお願いします」

白に紺のボーダー柄を着た若い女性小暮彩は、明るい茶のショートヘアーに大きな黒のセルフレームのメガネを掛け頬のピンク色が目立つ化粧をしていた。その小暮がメガネの中のつけまつげをした細い目をもっと細くした笑顔で話し出す。

「あの、すっごく、いいです。いいお話です。もうタイトルからやられちゃいました。“アルマジロのつばさ”!お話読ませてもらって、わたしの中にすぐに主人公のアルマジロのアルが浮かんできて・・・。でも、こんなすてきなお話、わたしなんかが描かしてもらって、いいのかなって・・・」

小暮彩は先月6月の末に真紀が書き上げたお話を担当の小坂から渡され読んでいた。小坂が自社の雑誌を広げてページの下の方に描かれた、メガネと本の横にカエルがいるイラストを見せて言った。

「藤井さん、見て!私の勘よ、ビビッと来た。小暮さん、こういう絵を描くの」

そのイラストは、太くなったり細くなったり引っ掻いたような感じの味のある線で描かれていた。

「彩ちゃんにはこの雑誌のイラスト描いてもらってね、この感じが藤井さんのお話にいいんじゃないかって思ったんだ。他にもあるから見て」

小坂がハガキくらいの大きさの紙に描かれた何枚かの絵を真紀に見せる。

それは歯ブラシとコップ、そしてその横になぜか小さなマトリョーシカが描かれたカラーのイラストだった。そのきれいな色使いが目を引いた。

「いいですね、何か、面白い・・・。あ、ごめんなさい、うまく言えなくて」

真紀が少し頭を下げて言うと、小暮彩が手を顔の前で何度も振ってもっと頭を下げた。

「あ、とんでもないです!私、絵本なんて初めてで・・・、すみません・・・」

「その初めての、初々しさ瑞々しさがあらわれる絵がいいの。何かこの、ちょっとしたクセがいいのね、彩ちゃんの。ただかわいいとか、ただきれいとかいうんじゃない、何か引っ掛かるところがいいんだ。アルマジロのアルってさ、ちょっと変なっていうか、そこのニュアンスがないと面白くないよね。ねえ、藤井さん」

真紀は何枚かある他の絵も見ていた。モノや背景に使われているきれいな色は、水色に紫、ピンクにイエローグリーン、臙脂色にダークグリーンなど色の組み合わせにも微妙なニュアンスがあった。またモチーフが違う絵では、カブトムシが車のついたマッチ箱を引いていて、そのマッチ箱の上には宝石がちりばめられた派手な指輪が載っている。もう一枚はハチの描かれたハチミツの瓶に三匹のハチが止まろうとしている・・・。

「はい、ほんと面白いです。お話から小暮さんの感じるところで、まずは自由に描いてもらえればと思います」

「アルマジロって、背負ってる感じがいいなって」

自分の作品を説明することなく、ただ黙っていた小暮彩が真紀に言った。

「自分のことって自分でもわからないですよね。そんな戸惑い、みんなも持ってると思うんです。このアルマジロのアルも」

「彩ちゃん、あんまり意識しないでね。あなた、意識しないところがいいんだから」

小坂が組んでいた細い両腕をそのままテーブルに乗せ、身体を乗り出して小暮彩に言った。

「そっか、そうですね。わかりました、じゃあ無意識で!」

彩の面白い受け答えに、小坂と真紀は声を上げて笑った。

 小坂のスマホが鳴り、ちょっとすみませんと言って小坂が部屋の外へ出た。二人になった部屋が静かになった。小暮彩がさっきまでの明るさとは違う、とてもおとなしい感じで真紀に聞いた。

「あの、すみません・・・。ちょっと、私のこと聞いてもらっていいですか」

「ええ、どうぞ」

「私、学校でずっといじめられてきたんです」

「え?」

「どうしてなのか自分じゃ分からなかったんですけど、何か、私、はっきりしなくてうじうじしてるように見えたのかなって。それでみんな私のこと嫌だったのかなって、思うんです。私、たしかにそういうところもあるので、まあ抵抗とかもしませんでした。それでどうしようもなくて絵を書いて、何とかしようとも思わずに結局色んなことから逃げてきたんです。それがこんな風に仕事いただけるようになるなんて・・・、何か、不思議です。すみません、初対面なのに急に変な話して」

「いえ、そうだったんですか」

可愛いおしゃれをして明るそうな笑顔を見せる彩も、内面はその見た目通りではない。真紀は思った。人はみんな心の中に思うようにならない何かを抱えて生きている。でも・・・。

「だから何か、このアルマジロを描くって、逃げちゃう自分を描くみたいなところもあって・・・」

真紀は、小暮彩が自分のコンプレックスを強く意識しているように感じた。それをそのままアルマジロのアルに重ねて描いていくと、この絵本であらわしたいこととは違う印象が出てしまう・・・。真紀は、彩を正すのではなく、彩を認めようと思った。

「でも、逃げるって、悪いことだけじゃないって私は思うんです。戦うっていうのと比べるとマイナスのイメージを感じるかもしれませんが、やみくもに向かっていってもただ傷つくだけです。逃げるって、自分を大事にするためのアクション、っていう見方もできるんじゃないかなって思ってます。動物たちもよく言われている弱肉強食に見えますが、みんな自分にそなわった特徴とか自分にあったやり方を工夫して、生きていってます」

「そっか・・・」

真紀の言葉を聞いて彩が小さな声でつぶやいた。少し黙った彩は、急に顔を上げ難しい問題が解けたような明るい表情を見せた。

「そうなんですね、アルも、そこなんだ・・・!何か、分かったような気がします。藤井さん、ありがとうございます!」

「いえ、そんな。小暮さんがお話してくれたので、良かったです」

「私、がんばります!」

「あんまり意識しないでくださいね」

「あ、そうでした、無意識でいきます!」

真紀は声の調子を上げた彩と目を合わせ笑った。

 部屋に戻った小坂は、ラフの描き上げのスケジュールを一か月後の8月13日、世間がお盆に入る前にと彩に言った。夏休みの宿題ですねと彩が言って、よろしくお願いしますとあらためて真紀に頭を下げた。こちらこそと言った真紀の頭の中に、アルマジロのアルが丸まった甲羅から黒く澄んだ目をのぞかせてこちらを見ている絵が浮かんだ。

 

 紗英はロビーを小走りする陸に追いつき、肩に手をやりトイレの前に来た。そこには若い夫婦と小さな子どもがいた。

「はい、卓ちゃんはパパとね。ママはこっち」

「ママー」

「卓ちゃん、パパと行こう、はい!」

父親は小さな子どもと手をつないで男子トイレに入っていった。その様子を陸が見ていたことを、紗英は気がつかなかった。

「はい陸、ちゃんとしてきて。こぼさないでよ、紗英はそっちに入れないからね」

男子トイレに入いった陸は、今入った父親が小さな子のおしっこの面倒を見ているところを見た。

「出たかなー、よーし卓ちゃん!さ、パンツ上げて、外でママを待ってよう!」

「うん、ママ、ママー!」

陸は用を足しながら、父親の声かけに小さな子が答えているのを聞いた・・・。

 「ああ、ゲリラ豪雨ってやつ、これじゃ飛べない。飛ぶようになったら・・・、わかってるって!」

ゲリラ豪雨で欠航の状況を伝えていた仲間聡は、最後は大声を出してスマホを切りGパンの尻のポケットにつっこんだ。ため息をついた聡がトイレに入ろうとすると、その前でトイレの中に向かって声を上げている若い女性、紗英がいた。

「陸、出てきて。どうしたの陸!おしっこもう出たでしょ!」

聡が中に入ると、右の小便の列には誰もいなかった。左の洋式トイレの列を見ると、手前から二つ目のドアだけが閉まっていた。聡は外へ出て、紗英に伝えた。

「ひとつだけ閉まってるドアがある。その中に、いるんじゃないかな」

「あの、すみません。6才の男の子なんですけど、陸っていいます。あの、連れ出してもらえませんか?わたしが入るとまずいので・・・」

紗英は色褪せた紺色のポロシャツを着た背の高い青年聡を見上げて、両手を合わせて頼んだ。

「え、俺が・・・?」

そして紗英は声を小さくして、お願いをもう一つ付け加えた。

「お願いします!あの、陸にアルマジロのお話聞かなきゃって、言ってください・・・」

「アルマジロ・・・?」

 行きがかり上しょうがなく若い女性紗英のお願いを引き受けた聡はトイレへ入り、閉まっているドアの前に立ってやさしくノックをした。

「オーイ、陸くん。そこにいるのかな? 出てきてよ、陸くん。そこを使いたいんだ」

聡の声かけに中からの返事はなかった。

「お願いだ、もれそうなんだ!」

それでも返事はなかった。聡は伝えられた言葉を小さな声で口にしてみた。

「陸くん、アルマジロのお話、聞くんだろ?」

聡はそう言いながら手前から二つ目の、閉まっているドアに手をかけた。カギはかかっていなかった。聡はドアゆっくりと開いた。そこには、胸に魚の絵のついた黄色いTシャツの小さな男の子が便座に座っていた。この子が陸・・・。名前を知っているのに初めて会うのは子ども相手でも何か変だと聡は思った。

「おう!何があったか知らないけど、お姉ちゃんが待ってる。行こう!」

陸は座ったまま黒い目で聡をじっと見た。

「何だよ・・・、俺は、頼まれたの!」

陸は下を向いて動かなくなった。聡が陸の肩に手を置いても陸は出ようとしなかった。聡は外に出て紗英に伝えた。

「だめだ。ぜんぜん出ようとしない」

「今、中には陸の他に誰もいませんか」

「ああ、いない」

聡がうなずくと、紗英はふうっと息を吐き男子トイレに入っていった。

「陸!何やってるの!」

紗英の大声が聡の耳に響いた。

 「もう、おしっこだっていったじゃない!何で大きい方に座ってるの・・・!あ、ありがとうございました!」

紗英は陸と手をつないでトイレから出てきて、外にいた聡に礼を言った。

「いや、別に。アルマジロの話、お姉ちゃんに聞いたらいいさ」

短い髪に手をやって、陸に声を掛けた聡のイントネーションが、紗英の耳についた。

「あの、沖縄の方ですか?」

いきなり出身地を言われ、聡は面食らった。

「あ、そう、だけど・・・」

「何か、分かりました。言葉の感じで。沖縄に帰省されるんですか?」

「え、ああ・・・」

「わたしたちも、沖縄に行くんです!」

「そう・・・。どうも、じゃあ」

紗英の言葉に聡は何とも返答ができず、トイレを指差してあらためて入った。

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