とりあえず猫である

      画像著作者 Seven-Studio (改変 gatag.net)

 とりあえず猫である。訳あって、今は温泉宿の一室を住まいとしている。
 女将の部屋からは宿の客用正面入り口と、調理場への勝手口がよく見える。休憩していても御用聞きや客が来れば直ぐに出て行けるよう、いつでも外を眺めているのが女将である。
 外を眺めながら「足湯があるとええわねー」こう囁くと、何日もしないで宿の真ん前をホッくり返しひっくり返しが始まった。
 なんと騒がしい事かと思いながらも、ユンボがギクシャク働く姿は懐かしく、暫く様子を見ていると、知った顔の親父連中が休憩時間に煙草をふかす。
 もしやと思い外に出て見ると、この宿に転居する前に親交していた松林に住まう者達であった。
 ユンボは以前住んでいた診療所にいた奴で、吾輩が可愛らしくニャーと声をかけてやったのに何の返事もない。相変わらずの不細工である。
 鳴声に気づいた者が、宿から出された茶菓子で吾輩を釣ろうとする。
 馬鹿野郎、老人会の寄り合いでしか出て来ない駄菓子に釣られる程安っポイ猫ではない。とは思ったが、ついつい食い付いてしまった。
「オマエがなー、仲良くしてた神社の三毛なー……死んじまったなー」ナデナデ。
 聞いてないよ。いつ死んだんだよ。
 以前住んでいた所では、クロとした黒猫と親友であった。神社に住まう三毛猫とは、巫女の卑弥呼を訪ねて行った時に知り合って以来、随分と仲良くしていた。
 クロは親分の風格を醸し出す大猫で、殺しても生き返るであろうから心配などせんが、穏やかな性格の三毛子が逝ってしまったかと思うと耐えきれん。

 三毛子の悲報にめげて日々朦朧と過ごしていると、足湯が完成して宿の前が賑やかである。
 野次馬根性と御友達の吾輩としては、覗きに行かないのはポリシーに反する。少々ウツ傾向にあるので外出が面倒であったが、足湯見学に外へと出る。
 人間とはつまらん事に喜ぶもので、足だけ湯に浸してぬっくいゝとやっている。
 中途半端に浸かっていないで肩までドブッといった方が暖かろうに、猫でも入れる湯が怖くて全身浸かれないのがいるらしい。
 御めでたいばかりの人間がキャッキャと無駄に明るくはしゃぐ生態を、見ても聞いても混じっても、足湯をチョコゝっといじっても、吾輩の虚ろな心は晴れる筈もない。
 思い返してみるに、ここに来て久しいが、他の猫を見かけた事がない。この地には猫が住んでいないのか、それとも猫狩りが盛んな猫食い族の居住区でもあるのか。
 天涯孤独の猫ゆえ、どこに行っても生きて行けると虚勢を張ってはいるものの、気持ちの奥底では三毛子やクロに会いたい。 
 それが、会いたい猫第一位の三毛子が死んだと聞いては、いかに強靭な精神を持つ吾輩でも、ちょっとだけあっちの世界に逝ってみちゃおうかなという気になる。
 都合よくと言うべきか運悪くと言うべきか、温泉情緒を容赦なくぶち壊す赤いの白いのリボンが、足湯で柱と柱の間に輪っかを作り吾輩を呼んでいる。
 輪の中に首を突っ込んで、ひょいとぶら下がれば三毛子に会えると思い、リボンをチャイゝしていたら招き猫に間違われた。
 居合わせた客やら地方新聞の記者や、ミニコミ誌の連中に写真を撮られまくると、根っからのサービス精神に火がつきあれやこれや、逆立ちだってできるもんねーとポーズをとってやる。
 これを見たギャル達が、「キャー、キャワブユイ」ときたもんだ。
 可愛いのか不細工なのかどっちなんだよと思いながらも、キャーとか言われるとスリゝゴロゝしてしまう性の何と卑しい事か。
 とりあえずぶら下がるのは後に回し、接客に勤しんでいたら輪っかがなくなっていた。
 片付けられたリボンを見れば、チッコイ死神が絡まって身動きとれずに息絶えている。
 吾輩は一瞬あのチッコイ奴に憑りつかれたらしい。危うくその気になって、迷わず逝くところであった。くわばらくわばら。
 愛しい者との死別は酷く辛いものの、いかんともしがたく、ただ時が解決してくれるのを待つばかりかと思っていたが、まんざら他の解決方法が無いでもない。
 これほどキャワブユがってもらえるのであれば、女風呂ばかりでなく足湯にもチョクゝ顔を出せば少しは気が紛れるであろう。
 ニャンと鳴いてやったら菓子がもらえた、もう一度ニャンと鳴いたらナデナデもしてもらえた。
 こっちにも来いと呼んでくれるのは有難いが、たとえ人間でも汚い男は吾輩の潜在意識とDNAが嫌いだと表明しているから遠避けて、若い女子衆の所で過ごすのが心の傷を癒すのに一番よろしいようである。

 数日して、この宿に置かれた時に部屋で一緒したハリネズミとあだ名された男が、吾輩の姿写真をカレンダーにして売るからとカメラマンを連れてきた。
 この間は遠く北海道から吾輩の招き猫サービスに感激した者が、自分で作った夕張キングなる赤肉メロンをわざわざ吾輩に宛てて送ってくれた。
 だんだん人気が上がってくるに従って、己が猫である事はようやく忘却し、猫スタンスであったのがいつの間にか人間寄りの思考に走る傾向を示している。
 このまま人間になって、主人と同じに先生と呼ばれる日も遠くない気分になる時がある。それのみか、既にやっちやんを主人ではなく同類同等の立場にある者として見ている自分の何と進化したものかと自画自賛。
 猫族が劣っていると卑下するのではない。ただ、毎日多くの人間に囲まれ、同類であるべき猫には会えずにいる。 
 こうまで人化が進んだ猫を、化け猫などと毛嫌いする者もいるが、多少の悪い噂は有名税として諦めるとする。
 三毛子やクロを思ってばかりはいられない。宿の収益アップに貢献している者として、当然に同等もしくはそれ以上の待遇にあってしかるべき猫である。
 このような見識を有する吾輩を、そんじょそこらの野良猫程度にしか思っていないのがやっちゃんで、食べごろまで待っていた夕張メロンを何のことわりもなく食っちまった。
 そこまででも許せないのに、次にやった事は食って終わった皮さえ吾輩の物とせず、さっさとゴミとして片付けてしまったのである。
 世間様は吾輩の主人をやっちゃんであるとしているが、あんな奴を主人とは思わないと決めたから、今は女将を主人としている。
 しかし、吾輩も他の者と同じにこの男をやっちゃんと呼んでいる。これは親しみを持って言っているのではない。良い奴と感じてもいないのにちゃん付けもないが【やっ】だけでは語り難いので仕方なしのちゃん付けである。

 宿前の海岸は砂浜と岩場が混在しており、満潮時には一間高くなっている石垣まで潮がかかる勢いで、潮が引けば岩場にはいくつもの潮だまりできる。
 吾輩はこの小さな生けすに取り残された魚や貝と遊ぶのが殊の外気に入って、天気の良い日は必ず浜に出る。
 海岸を歩いていると、宿に泊まった客が吾輩を見つけ一緒に遊びたがる。
 診療所と違い、誰もが自由に行き来できる浜で咎める者もなく、寄って来るのは皆猫好きで、毎回愉快にこの者達と遊んでやる。
 宿では客が残した刺身で海鮮丼を作ってくれる。こんなに美味い物が世の中に有ったのかと感激したのもつかの間、毎日となると別次元の話となってくる。
 贅沢病と言われればそれまでだが、同じ物ばかりを食い続けると体調が崩れて来るもので、魚ばかり食っていて抜毛が増えて来たと気にしていると、尻の辺りが薄っすら涼しい。
 吾輩をナデナデしていた女将が尻ハゲをいち早く見つけてくれて、動物専用の病院に連れて行ってくれた。 
 これまで病院とは人間だけが行く所だとばかり思っていた。
 吾輩は診療所に住まう猫であったから、特別に治療してもらえると信じていたが何の事はない、猫の専門医に支払う御足をケチっていただけだとここに来て判明した。
 この動物病院なる施設、犬猫病院と入口の看板に書いてある。犬も猫も同じ扱いの上に、あの下等で卑しい犬如き生物を看板表記の猫より上に書くとは何事か。ハゲを治してもらって感謝はするが、呼び名がまことに失礼な病院である。

 太陽ギラギラで暑かった頃、駐車場でのバーベキューが流行った。
 おこぼれにあずかりっぱなしで目覚ましい夏太り、この宿の守護神としての風格は出たものの、贅肉がだぶついて機敏な動きと優雅さを失ってしまった。
 吾輩としては非常に残念な結果であるのに、宿に来る者はおろか女将や板前、仲居にいたるまで異論なくこの風体を見て和んだ顔となる。
 デブった猫がそんなに面白いか、ならばクロはもっと太い。ア奴がここに来たならば、一躍スターの仲間入りとなるに違いない。
 涼しくなってからは外で遊ぶ者が減って、余計な飯を食わなくなり元のスレンダー美猫に戻れた。
 暑い時期に大暇してろくに仕事をしない医者だったやっちゃんも、病院の改修工事が落ち着いて仕事に励んでいる。

 大晦日の朝、幾組かの客を送り出して終えた宿の者が、挙ってロビーで休憩している。
 観光パンフには、初日の出が綺麗なこの宿で過ごすとよろしいかの如きキャッチコピーが書かれていたと記憶しているが、明日に備えて客を迎える準備をしていない。
 従業員のストライキでもあるのか、帳場を覗くと女将がやっちゃんめがけて包丁を投げつけている。
 なかなかいいコントロールではあるが、頬をかすめただけで柱に突き刺さってしまっては意味がない。もう少し手首の捻りを早めにすれば、心臓へ命中したのに残念である。
 二人が命の遣り取りかと思いきや、芸能出し物の練習でもあったのか、その後の闘争に展開がない。
 二人の話をチラッと聞けば、浪費癖のある御大臣が今日から何日か宿を借り切って、皆を接待する奇妙な遊びに興じるので、やっちゃんは最上階の部屋へ御引っ越ししてねと女将が優しい口調で命令している。
 この後、ロビーに据えられた招き猫用の座布団以外への行き来が制限されていた吾輩に、今日から数日は一般の御客さんが来ないからと、館内自由通行の許可がおりた。

 からっぽになった部屋で、今日は吾輩だけだぞとゴロングルン戯れていたら、やっちゃんが務める病院の設備管理をしているハリネズミと称される男が、何も置かれてない部屋を見てハテナ部屋を違えたかとやっている。
「やっちゃんなら四階の特別室に引っ越したぞ」教えてやると「何だそうだったのか」こう言って部屋の斜向かいにある階段をかけ上ろうとして転んだ。
 いつも代金を払わず風呂に入っているもので、浴衣が借りられず洋服の湯上りが当たり前だったのが、今日は女将の機嫌がよくて他の客も来ないから特別に浴衣を貸してもらっていたのを忘れていたようだ。いつものように駆け出した勢いで、裾が足にまとわりついてこけたのである。
 頭をぶつけてできあがったコブをナデナデ、子供と同じに照れ隠しをしている。痛い目に遭いながらも、顔は喜んでいるのがはっきり分かるのだから単純な奴だ。
 絶対にポーカーや麻雀といった顔色を窺う博打では勝てない。そのくせして、近所のチンピラはこの男に頭を下げるている。世の中は分からないものである。
 という訳で、ハリネズミは吾輩が言った事を理解した。この街には猫語を解する者は一人もいないので寂しかったが、一人みーつけた!

 話の分かる者に加え情報通と噂の者なら、今日の宿を借り切った粋狂者についても知っておろう、この時とばかり我が物顔に宿をうろつくハリネズミを呼び止め、あんな事こんな事イッパイ聞いてみた。
 こやつは情報通だけでなく、妖怪変化の類にも精通して親交があると自分から打ち明けてしまうほど口軽な男で、吾輩の質問に何の抵抗もなくスラスラ答えてくれるのは良いのだが、どこまで本当でどこから嘘かの判別ができない。
 近隣に猫語を理解している者がいないので、人間には決して言えない事でも話せて嬉しいと、聞いてもいない出生の秘密やら今日来る者の素性や宿との因縁話までしてくれた。
 話っぷりが軽快で講談のようだと感想したら、実は代々講談の家系で育った者で、今でも時々人前で物語るのだと言う。
 そんな特技があるならば、風呂で一席打ったら客が喜ぶぞと提案してやった。
 吾輩の招き猫人気は依然として絶頂であるが、いずれ落ちて行くのは頂点に立つ者の定め。そうなった時には、宿の収支が債務超過になりはせんかと心配であった。
 ハリネズミが後継者として客寄せパンダとなってくれれば、宿が潰れる心配などなく暮して行ける。
 講談で人が集まればタダ風呂入りなどと蔑まされず、浴衣どころか演じた後に生ビールの一杯も出してもらえるからと言いくるめ、その気になって上機嫌な所に付け入れば、どんなディープな情報もこやつから容易く入手できるとの企みどおり、これから後はハリネズミと同等の情報通になれたのは言うまでもない。

 口軽男の情報からすれば、クリスマスの時に小児病棟の子供達の為にドデカツリーを作っていた者達が主催する催しで貸切になった宿だが、招待された客の中には診療所の者達も含まれていた。
 去年の夏、あいつ等にここへ置き去りにされたきり、診療所とは音信不通のままであった。
 いくら以前は飯宿の世話になった者でも所詮は人間、今会いたいのは界隈に見当らない猫族の友である。
 女医のあおいと看護師のキリちゃん、そして朱莉ちゃんは話し相手になるからいいとして、他はどうでも宜しい。
 残念な事に猫はいつでもついでの者として扱われ、今回の招待客に含まれているとは思えず、何かの間違いでついでにクロがやってくればいいのになと独り言にチョロッとニャンした。
「あの車屋にいる黒猫ですか」ハリネズミが眼を丸くする。
「ええ、クロの事では随分と前から会いたくなっているのだが、こんなに離れた所に幽閉されてしまってはそれもままならん。猫語を解さぬ者ばかりで、ついつい今日まで誰にも話せずにいたのだよ、ハリネズミ君」
「そりゃ寂しい」ハリネズミが大きな声を出す。
「なあに、あなたに会えて話し相手もできましたし、御客さんと適当に遊んでいれば気も紛れます。それに特別会いたいと願うのはクロだけですよ」
「クロの事だって、誰の事だって、あの車屋さんは昔から親しくさせてもらっている御人だ、私が何とかいたしましょう」ハリネズミは勝手にクロとの再開を請け負って納得している。
「しかしあなたも物好きですね。猫の為にそこまでやる人間に、これまで御目にかかっていない。貴方には何と言うか、ミステーリアスな所がおありで、増々興味がわいてきた。これからはもっと昵懇に御付き合い願いますよ」
 するとハリネズミは尚更に安心して、吾輩と共通の知人や知猫の名を列挙する。
「車屋さんばかりじゃありません。やっちゃんの親分にあたる山城さん、貴方がさっきおっしゃていた巫女の卑弥呼さんに女医のあおいさんも、あとそれからヤブ先生とも長い御付き合いをさせてもらってます。これは思いもかけずに良い方に廻り会えた。こちらこそ宜しくお願いしますよ」
 ハリネズミは誰にも言えない秘密を吐き出してすっきりする為、それからと言うもの事あらばここへやってくる。

 これから来る者達について知ったからとて何の事はない。頭の中で診療所の者達が来ると嬉しい反面、元旦には御客相手に晴れやか気分で遊ぶ構想が崩れ、足し引き零の勘定になっている。拍子抜けである。
 ハリネズミは早速練習だと言って、宿の者相手に一席打っている。それを見聞きしてもいいが、吾輩との出会いを物語っている。他の者には分からないとはいえ羞恥が先に立って行き辛い。
 静な宿内を探索すると、まったく客のいない宿と言う異空間では気持ちまで今までと違ってくる。
 元旦は客相手にロビーの指定席でマッタリ過ごすと決めていたが、水平線から昇る初日の出を拝んだら、あおいに頼んで初詣に行って、帰って来たらいつか上手く食えなかった雑煮の餅に挑戦してみようかなどと思いを巡らせる。
 すると小腹がすいてきた。女将の部屋で菓子でも馳走になろうと覗いてみると、珍しく神妙なやっちゃんを前に女将が小言を並べている。
 いつだって人様に迷惑をかけて生きてる捻くれ者である。ほんの少しの気遣いができないから叱られて当然の男だが、何を語られているのか。
「祝言の日はえらいよろしい家に嫁げたものだと、縁談を持ってきてくれた山城の親分はんには随分と感謝したものどす。産れ育ちが老舗旅館の三女どして、三条から嵐山へと行き当たった所に実家の宿があります。
――中略――
 こん切込みで堪忍袋の緒が切れたんが山城親分はんで、レンコン持って自分から議員はんのタマ取りに行くと言い出したんどす。
 山城はんを必死に止めたんが、若頭やった勘吉はんと、先生ん御父はんの車屋はんどした。
――中略――
 先生は、御兄はんが御父はんからえらく贔屓されて、親ん血を引いて極道な自分を嫌っていると言うてましたやろ。
 先生と仲違いしたはる御兄はんの手前、今日の宴会に御父はんはみえませんが、先生ん御父はんは本心どん子もかいらしい言うてました。
 ヤクザな道歩いてほしくない一方で、山城はん所に世話になっとるんも嬉しいらしうて、なん時になったら島一つ任せてもらえるんか、なん時になったら組を持たせてもらえるんかと、会合では山城はんに随分と絡んではりました」
 異常に長い話であったが今日の客、宿には大恩人でも世間様が言う所の極道だと分かった。
 ヤブもやっちゃんもどうせそのような者達と同類かそれ以下の人間と思っていたが、ここできゃつらの正体がはっきりと見えてきた。
 それならばたいして金にならん診療所に住まいながら、毎日宴会に明け暮れていられた理由も立つ。
 吾輩はこれまで関わってきた者達が、どの程度の悪党であるのか、更に詳しく知りたくなってハリネズミに質問する。
「あの界隈に御住まいの方々についてですか」
「ヤブ医者ばかりの事ではありません」
 この宿の猫となってから、今まで大量の疑問が吾輩を悩ませてくれていた。
 明晰な脳をもってしても解明出来ないのならば、この際事情を知っていて秘密の持てない奴に聞くのが一番の良策である。
 診療所に住んでいた時分は世間と言うものがよく見えていなくて、こんなものなのだなと自分なりに納得していた事柄が、ここに来てはまったく通用しないのだと思わされる事態に何度も遭って来た。
 観光で遠くから湯へ入りに来る客の話などを聞くに、世界に目を向け大きな視野で物事を見れば、この宿が人の能力を含め総ての現象の標準的地域であると気付いた。
 これらの事からようやく、診療所一帯は特殊な地域だとこの頃になって分かった次第である。
 こういった事情であるからと、ハリネズミに知りうる限りを教えるよう依頼すると、彼は恐れ入ったと言う顔をして、「なるほど女将の言うとおり利口な猫だ、これなら言って聞かせてもいいだろう」と観念して話が始まる。
「あおい先生はいやに上品ぶって、自分だけ良い人らしい顔をしていますが、かなりの性悪野郎です」
「あおいは女である。野郎は御門違いです」
 ハリネズミの言葉使いが気になったので訂正してやった。
 これではまるで人の悪口を聞きたくて願ったようなものだ。主観を抜きにして事実だけ教えて欲しい。
 そこへいくと、猫語を解さぬ女将の方が話の内容を分かり易く聞ける。
「貴方は話すより物語った方が説得力がありそうだ、一つ講談にして聞かせてはもらえんかの」
 この提案が功を奏したもので、僅かばかりの間で多くの事を彼から学び取れた。我乍らなかなか良い提案だと自負しておる。
 まずは取っ掛かりとして、あおいについて聞いたが、恐ろしく込み入った話になっている。
 ヤブの手術がどうのの前に、今は亡くなってしまったあおいの叔母がヤブと婚姻届けを出していた。
 診療所で語っていた身の上話では、あおいは自分を天涯孤独と言っていたのが真っ赤っかかあーの嘘っぱちで、巫女の卑弥呼とは従姉妹にあたる。
 もう一人、近所に住まう従姉妹がいて、そ奴が地下の家を持った宇宙人のおっちゃん達と仲良くやっている遙である。
 この事をヤブは知らないが、幼馴染であるネギ畑のオヤジや車屋の主人は知っていて、狭い地域ゆえに公然の秘密となっている。
 やはり、こんな所でもヤブは御間抜けとなっていた。
 キリちゃんの娘の朱莉ちゃんにいたっては、診療所に越して来てから猫界はおろか人間界でもその天才ぶりを発揮して、いつか行った地下都市の建設に関わっていた。
 この地下世界は将来起るであろう大災害に備えた避難施設で、今はヤブに内緒の事業となっている。
 診療所の中にあっても奴はエンガチョされていた。
 いささか気の毒ではあるが、時が来ればみな打ち明けられるらしいから、まあよかろう。
 あおいが性悪だと言うのは、これらの事を一切ヤブに伝えてはならないと通達しているからで、ハリネズミは根がしゃべりたがり屋である為に、付き合いの長いヤブにこのように重大な秘密を持ち続けるのが辛いのである。
 吾輩に話せたので少しは気が紛れたらしいが、様子から察するにコヤツのストレス要因の総ては、一連の診療所界隈に関する事象となっている。
 誰がどんな目的を持って、地下都市に莫大な投資をしているのかは不明である。
「非常識が常識の診療所周辺なら聞く者もあろうが、そんな話を真に受け取る者は近所界隈はおろか旅人にもいない。
創り話として毎夜でも風呂で語って聞かせればよい」
 こうアドバイスなどしてやると、「先祖には言ってはならない事を物語り、密に殺害された者もいるから……」と尻込みをしている。
「科学の進んだ現代でも猫の言葉が話せると言って信じてくれる者はいないであろう、ならば極秘とされている今までの話とて同じ事である。誰一人として信じる者もなく、ましてそんな与太話講談冗談に危機感を持って人一人殺しに来る筈なかろう」と助言してやった。
 すると、「うん、言われてみればそのとおりだ、何んだか病気が治ったようなすっきりした気分だ」表情が明るくなる。分かりやすい奴である。
「そう、何も恐れる事はありません」
 吾輩が気合いを入れて後押ししてやる。
「それでは今日明日からでも始めてすっきりしましょうかね」
「それが得策ですよ」
©Daichi Ishii Office, LLC.