ブランコ婆ぁと釣竿婆ぁ

ブランコ婆ぁと釣竿婆ぁ


     画像著作者SandyManase


 深夜の病院には独特の雰囲気がある。

 助かった者や予期せぬ出来事で他界した者の念が混じり合い、それでも静かに漂っている。

 今時の病院はどこも敷地内総てが禁煙になっている。

 愛煙家の患者や職員が隠れ煙草くゆらせるのは毎度も見て来たが、青白い炎の揺らぎはどんな解釈をもってしても煙草の火とは言えない。

 間違っても明かりがないはずの暗闇に、何かがフワフワ見え妙に生ぬるい風が吹き抜ける。

 妙な揺らぎの方を向いていると、同乗している猫も同じボーと眺めている。

「今、何か変なのフワフワしてなかった?」

 言葉が通じるとは思わないが一応猫に聞いてみる。すると「ニャー」と鳴き返してくる。

 時々こいつは人間の言葉が分かっている素振りを見せてくれるから不思議だ。

 同じ不可思議でも猫のは可愛気があるが、目の前にフワフワしているのは歓迎できる奴とは思えない。

 本来いるのない者が近くにうろついていたのでは安心して寝ていられない。

 いくら病院でも本物の幽霊がいるとは信じていないきっと誰かの悪戯に違いない。

「おい」

 少しばかり気合を入れ脅すように声を掛けたが返事ない。

 外に出て揺らぎに向かって二歩三歩近寄って立ち止まる。

 遠くに立っている街灯の光に照らされ薄っすら見えるのは白い木製のベンチで、その向こうに小さなブランコと鉄棒に滑り台がある。

 揺らぎは砂場の真ん中辺りにある。

 病院から、敷地の一部を児童公園にしていると知らされていたが、今の時間にここで遊ぶ者はいないだろう。

 角に立てられた街灯は切れかけていて、一瞬ピカッと光って消える

 公園全体が見えて直ぐ暗闇に呑み込まれるとかえって真っ暗に感じるから余計に薄気味悪い。

 暗い所にチラチラとまた青白いのが揺れ始めると、どうにもたまらなく恐ろしい気配がして一歩も動けなくなってしまった。

 さっきチラリと見えた景色を頭の中で再現すると、ブランコ辺りに揺らぎはあって、ブランコではない大きな物体もぶら下ってフラリフラリと揺れていた。

 恐るゝ「おーい」と声をかける。

 公園の隅に寄せてあるゴミ籠がバッタンゴロン、転がって鉄棒の柱をカーンと叩く音がした。

 猫が驚き、ニャンと飛び上がりざま走って、キャンピング仕様救急車の中に逃げ入ったきり、真ん丸に見開いた目をキョロキョロさせて出て来ない。

 返事がないから、車に戻って懐中電灯を持ち出し公園の方を照らしてみると、ブランコと同じに首へロープをかけた婆さんが、だらしなくぶら下っている。この顔がいかにも苦しそうだ。

 思い切ってぶら下ったはいいが、上手く首の骨が折れないで、細い首を絞めている状態に見える。このままでは苦しいばかりでいつになっても死ねない。

 どうせ死ぬなら楽に逝こうと一気にドンしたのだろうが、計算も何もやらないで実行した首吊りほど苦しい死に方はないのを知らなかったとみえる。

 辛そうなのは観ていて可哀想だ。足をひっぱってやろうと婆さんブランコに駆け寄ってみると、グブブブッっと笑っている。死なねえのかよ。

 近くでライトを当てて婆さんをじっくり観察すると、首にかかっていたロープは喉元を絞めているのではなく、顎と後頭部にタオルを巻きつけてハンガー式頸椎けん引器の真似をしてぶら下っている。

「ばあーさん、こんな夜更けに紛らわしいことしてんじゃないよ。危なく足引っ張るところだったじゃないかー」軽く注意する。

「なーに言うか青二才がー、あたしゃこれでも年季の入った医者だよゴニョ、半人前にとやかく言われる筋合いはないねーゴニョ! それよりもゴニョ、あんたこそ頭の上でチョロチョロしている奴を気にした方が良いんじゃないのかいゴニョ」

 俺の頭をジッと上目遣いに見据え、ぶら下ったまま話すから語尾が何だかゴニョゴニョしているが言いたいことは分かった、ものの、頭の上の奴とは何を指して言っているのか理解に苦しむ婆さんだ。

「ところで、何してんの」

「見りゃ分かるじゃろい、ぶら下がってんのゴニョ」

 ぶらさがっているのは分かるが話しの見えない婆あだ。

「理由だよ、何でぶらさがってんのよ」

「さっき信号待ちで追突事故に遭ってね、むち打ちなのゴニョ」

「突っ込まれたの?」

「突っ込んだに決まっとるじゃろ、追突されるほどもうろくしとらんわいゴニョ」

 十二分に行っちゃってるよ婆あ。

 つまらないことで貴重な夜のひと時を使ってしまった。テレビを見ながらビールでも呑んで寝てやる。

 さっさとこんな所から車に戻ろうと歩き出すと、ロープをたたんで婆あが後からピョコタカ付いてくる。何を考えているのか嫌な感じがするから走ると婆も走る。

「来るなよ婆あ」

「あんたに用事があって来たんだから、来るなと言われても行くよゴニョ」

「ゴニョじゃねえよ婆あ」

 蹴散らしたがはて、俺に用事があって来たといった意味のことを言われたような気がするが……空耳だろう。

 危ないからしっかり鍵を閉めてから外を眺めると、今度はロクちゃん救急車の上からロープをかけて窓の外でぶらぶらしている。ちんちくりんのくせに元気な婆あだ。

 このままでは気持がち悪い。ゆっくり寝られそうにない。それに間違って死なれでもしたら、俺が殺したとも思われかねない状況だ。

 凶暴ではなさそうだから、仕方なく中に入れて事情を聴いてやるとしてみた。

「俺に用って何?」

「んー、わしにはビールないの? ゴニョ」質問に答えるようすはない。

 初対面の人間に対してあつかましくもビールを催促するあたり、病院で威張っている誰かに性格が似ている。

「ビール出してもいいけど、ろくでもない用事とか強請り集りだったら引き回して打ち首獄門にするぞ」

「ろくでもないかあるかはおまえの取り方しだいだ。早くビール出せーゴニョ」

 口惜しいが、どこから湧いて出たか分からない婆あに用事があると言われて、放っておけるほど奔放な人間ではない。

 一番小さい缶ビールを出すと、クッゴックンと一口で呑み切っておかわりを欲している。

 始めからでかいのを出しておけば良かったと思いつつ一番でかいのを差し出したら、これも一気にゴックンゴックンと呑み切ってもう一本と……酔えよ、満足しろよ。

 ウワバミの婆あに憑りつかれ呑ませる事十五本。

「やっと喉の渇きがいえたかねゴニョ。それじゃあ本格的に呑むよーゴニョ」

 とっても付き合いきれないから、漬けていたパイン酒の瓶をそっくり預けて呑ませることにした。とんだ出費だ。

 この悲劇を知ってか知らずか、警戒心など微塵も見せず猫はベットで腹を出して大いびきをかいている。さっきまでのビビリはどこに行ったのか、立ち直りの早い奴だ。

「婆あ、いい加減にして用事ってのを話す気にならないかなー。追い出すよ」

「閑静でいいねーゴニョ」

「へえ、御覧の通りの山里で……じゃねえだろ。用事って何だよ」

「鶯は鳴くかね、ゴニョ」

「ええ毎日のように鳴きます。夏でも鳴きます。だからー何しに来たんだよー」

「聞きたいなら頭の上にチョロチョロしているのに聞きなよゴニョ」

「それだけかよ」

 婆あはそれだけ言うとパイン酒ありがとうと瓶を抱えて闇の中へ吸い込まれるように去って行った。

 三十秒ほどしてガシャーンとガラス瓶が割れる音がしたが、何が割れたにしてももはや俺には関わりの無い事だ。 

 聞こえないふりをしてそのまま寝た。

 寝たには寝たが頭の上にチョロチョロとか言われると気になって仕方ない。

 直ぐに目が覚めて夜中に鏡を見てやる。

 すると、頭の上に陽炎のような揺らぎが弱い光を出してフワフワしている。呑み過ぎたか事故の後遺症で変な物が見えるようになったか。

 他の景色はしっかりしたものだから、気にしなければ何のことはない。鏡も滅多に覗かない人間だし、びびって医者に行って入院となってもつまらないばかりだ。 

 ここは誰にも言う必要のない症状と自己診断して、もう一度しっかり寝るとした。すると今度は朝までぐっすり寝られたのだから、特に問題視する状態でもなかろう。

 が、この症状を婆あが知っていたことが車を走らせ出してから気になってくる。

 医者だと言っていたくらいだから、俺の精神状態を勘ぐれる何等かの症状が外から見て分かったのか……不思議だ。

 あれこれ考えながら渋滞に巻き込まれてノタノタ自家用救急車を転がしていると、ついつい緊急車両だぞとサイレンを鳴らして走りたくなる。から鳴らしてやった。

 大型トラックなみのサイズだから通れる道を作るのは容易ではないが、やればできるもので順繰り端に避けてくれるからズンズン進む。

 やれやれようやく渋滞の先頭だと辿り着いた先にバスが横転していた。

 オレンジ色の服を着た兄ちゃん達がせっせとバスから怪我人を運び出しているところで、御苦労様と一言挨拶してこの場は行き過ぎようとしている目の前に、警官が出て来てロクちゃん救急車を誘導する。

 救急車じゃないから……じゃない、救急車だった。

 ノックもしないでドアを開けたレスキュー隊員が、許可もとらずに中へ怪我人を運び込んでベットの上に寝かせる。

 普段着の白衣を着ていた俺を見るなり後はよろしくお願いしますと言ったと思ったら、患者を置き去りにして出て行く。無責任な奴だなー。俺は医者じゃないし……じゃない医者だった。

「早くしなよゴニョ、患者が死んじゃうよゴニョ」

 どこにいたのか、婆あがいきなり湧き出て俺にああせいこうせいと指図する。

「血の色苦手なんだよ。臭いもダメなんだよー」

「余計なゴタク並べてないで、手伝いなさいゴニョ。後がつかえてんだよゴニョ」

 一人だけかと思っていたら外には何人も怪我人が並んでいる。

「救急車来ないの?」

「この村には一台しかないよゴニョ。重症患者を乗せて隣り町まで行ってるから暫く帰ってこんわゴニョ。ヘリもさっき出て行ったばかりだから、一時間は帰ってこないよゴニョ」

「他からの応援はないのか」

「ない。ヘリだけじゃ。車は出払ってる。ゴニョ」はっきりした婆あだ。

 サイレン鳴らして走ってきちゃった手前しらばっくれる訳にもいかないし、このまま患者を放り出して逃げちゃうのもちと後味が悪い気がする。

 こんな時、猫が手伝ってくれればなーと思うがそうもいかない。しかし、しばらくまともに手術はやっていないし、できない。

「俺、手術できないよ」

「あたしがやるからいい! ゴニョ。それより頭の上の奴に頼んでみろゴニョ。直ぐに手術ができるようになるゴニョ」

「頭の上って」

 鏡を見ると白衣を着た小さな鼠が、「まかせろ」威張った風に胸を張っている。

 それを猫がチャイチャイとからかっているのだから、猫にも見えている白衣の鼠。いよいよ危ない兆候だ。

「頭の上って、これ?」

「そうだよ! ボケナス。ゴニョ。早く御願いして手伝えゴニョ」

 超自然現象に御願いも何も、どうすればいいのか方法も分からない。

「助けろ」端的且つ丁寧に御願いしてみた。

「助けてやる」簡単に承知してくれた。軽い奴だ。

 満員だった観光バスの横転事故は運転手を含めて五人が死亡、重傷の十人のうち四人は救急車とヘリで病院に運ばれたが、あとの六人と軽症の患者まで俺達が面倒見る結果となった。

 瀕死の重傷患者まで運んでくるのだから、婆あだけでは到底間に合わない。

 あたふたしているうちに俺も昔の勘を取り戻したか、何人かの応急処置を熟した。 

 応援が来たのは粗方処置が終わった頃で、重傷患者をヘリに乗せると軽症の者は警察の車が病院まで乗せていく。ロクちゃん救急車に乘ったままで動かせない患者は、このまま近くの病院まで運ぶしかない。

 せっかく渋滞を抜けて次の目的地に向かっていたのに、朝出た病院に逆戻りだ。

 この病院は婆あのホームグランドみたいだし、あまり長居したくない。

「ああ、良いい気分ちだ。御蔭で助かったよゴニョ」

 患者を下ろして逃げようとしていると、婆あが車に乗り込んできて勝手にビールを呑んでいる。

「御蔭で助かったとか言う前に、礼にビールの一ケースも持って来いよ。せめて自分が吞んだ分くらい補充しろ婆あ」正直な気持ちを打ち明けて見た。

「考えておくわ、ゴニョ」それっきり消えて音沙汰がない。フザケタ奴だ。

 緊急事態から解放され夜の国道を走る。

「あれが天狗岩だよ、ゴニョ」いつ乗った。

  突然横に現れた婆あが海に飛び出た卑猥な形の岩を指す。

「何であれが天狗岩なんだよ。どうみたってあれだろ」

「天狗の鼻に似ているから昔から天狗岩だゴニョ」

 ぜったいに間違っている、鼻の形ではない絶対にあれだ。ぶっとばしてやろうと思い婆あを見直すともういない。いかん! 幻覚だー。

 婆あの悍ましさが完全にトラウマになっている。

 今日は近場のドライブインに停めて早く寝た方がよさそうだ。

 天狗岩が見える海辺のドライブインにロクちゃんを停める。婆あの記憶が薄れるのに反比例して、頭の上にチョロチョロしている陽炎の姿がはっきり見えるようになってきた。

 良い傾向ではないが互いに会話を楽しめるようになったらば、猫との三者対談も可能になるのではないかといった考えが浮かんで来る。

 消しやってしまうのが惜しくなった。

 必要とあらば忘れてしまった過去や医学知識を、的確に教えてくれるのだからありがたい現象の一つだ。

 姿は妖精だったり小悪魔だったりと変化するものの、いつも同じ相手と感じる。

 今はフェアリーだから次はピクシーかと、密に楽しんでいる自分が危ない方向に向っているのは分かっている。

 そこで危ない方には向いていないと思い込む為に、こいつにパックという名前をつけてやった。変身上手で悪戯好きだからだ。

 パックは「お告げー」と言いながら現れるのが仕事らしい。予言のつもりだろうが、未だもってこの御告げが的中したことは一度もないと白状した。

 聞いてみるとこいつの予言はノストラダムスのように難解で、どうにでも取れる四行詩だ。当たったのか外れたのかの判定は不可能となっている。

 事故に遭ってからというもの、夜になると時折お出ましになってはならない物体が漂って見えたりしていた。どうせまたそのうち消えるだろうから放置する。

 平均的常識を有した社会人は、これを超常現象とかXファイルとか幽霊等と言うらしいが、これを他人に話すとどこぞの好ましからざる施設に強制収容されてしまうのでダンマリを決めている。

 俺はまず天狗岩を眺めて、次に婆さんを忘れ、三度目には半々に猫とパックの両方を見比べた。

 月夜に浮かぶ天狗岩のシルエットを診た時、やはりあれにしか見えない。

 医師として分析するに、頭の中に存在する婆さんの顔はもうすぐ消えてくれそうだ。したがって、婆さんから天狗岩と吹き込まれたのは幻聴で、実際にはあれ岩と呼ばれているのだと決めた。

 確認の為に岩の下を監察すれば、隣にある鮑貝の身の部分に酷似した岩との間に、ぶっといしめ縄が張られている。二つ合わせて夫婦岩と言うに決まっている。それがベタだ。

 さらにあれ岩の下を見ていくと、一番下には丸い岩が二つ並んでくっ付いている。玉岩とでもしておくべきか、そこへ波がザブンとかかるから、砕け散った波は下の毛そのままだ。

 惜しい事に店は閉まって辺りに人がいないから、本当の名前を知る術がない。

 そうではあるがいかに頑固な脳内婆あでも、ここまで完璧な夫婦岩を目の前にしておいて片割れが天狗岩だと言い続けはしないだろう。

 どうだ参ったか、これはあれ岩と言うんだよと怒鳴ってやったら婆あが完全に頭の中から消え去った。

 さて、パックはどうなったかと車内を見渡せば、猫と仲良くゴロゴロじゃれあっている。

 こいつは暫く俺の前から消えてくれそうにない。

 今日の所は諦めて、明日からの旅に備えよう。

 翌朝には婆あのばの字もなくなってすっきりはっきり脳内は晴れ渡り、俺も真ん前に果てなく広がる海も、豊に穏やかに朝の日に照らされている。と、思う。

 夏も終わりの頃、家出した時はまだ海水浴が出来る暑さだった。

 暫くは涼しい所を廻っていたのであまり暑いと感じなかったせいもあって季節の移り変わりなど気にしていなかったが、幾分涼しくうら寂しい季節になってきた。

 このまま北に向かったのでは北海道に行って帰っての途中で雪が降りだすから、千葉の温暖地仕様ロクちゃんには無理な旅となる。

 しかしながら、ここから素直に来たままユーターンというのも芸がない。

 そろそろ山では紅葉が始まったらしいから、これからは紅葉狩ツアーで山間部を見て回ってから南に進路を変えるとした。

「自然だなー」猫に声をかけて同意を求める。

「ニャー」考えることは猫も人間もたいして変わらない。すぐに了解したらしく、いつもより機嫌のいい声が返ってくる。

 辺りの景色が海から離れ、まだ紅葉していない山道に入ると運転していてもなんだか眠くなってくる。

 猫は手持無沙汰にベットで横になっているのがバックミラーに映っている。

「おーい、暇そうだな」と訊ねた。

「はーい、超暇してまっせー。おっさん、美味い飯屋探して昼にしませんかー」

 確かにそろそろ腹が減って来ても良い頃だが、猫が話すんじゃない。

 どういった奇跡で猫が話しているのか、チョイと路肩に車を停め後ろに回ってようすを見ると、広葉樹からの木漏れ日が作る影が車内にチラチラとしている。

 こいつ目掛けて猛アタックをかましているのは、いつ見ても猫がお馬鹿で滑稽な仕草だが、こちらに話し掛ける風ではない。

「誰だよ!」

 見回せば、まだ消えずにふわふわしていた奴が上から頭をツンツンする。パックかよ。

「腹が減ったから美味い物を食わせろ」

 頭の中の居候のくせに一人前に腹減らしとはタマゲタ。

 どうせ一心同体だから俺自身も空きっ腹であるには違いない、再びロクちゃんを走らせ良さそうな飯屋を探す。

 暫く走ると峠の茶屋という時代錯誤の店を発見した。

 広い駐車場には一台の客もなく、無遠慮にでかいロクちゃんを停めても良さそうな寂れ方だ。

 とかく汚いのに長くやっていられる食い物屋には美味くて安い飯が置いてあるものだ。

 中へ入れば外見から期待していたそのままに、土間の真ん中に設えた囲炉裏には寒くもないのに火が熾されている。

 家人はどこかと厨房らしき方に目をやると、ドキッとするほどブランコ婆さんに背格好の似た婆あが御茶を持ってくる。

 来るんじゃない、せっかく忘れていた忌まわしい過去を思い出す。

「婆さん、元気そうだね」

 ひょっとしてもしなくても同一人物だと困るので恐るゝ訊ねた。

「はい、御蔭さまでーゴニョ。ビールを二ケースばかりうちの者に積ませますから、後で声かけてやってくださいゴニョ」そう言い終わったばあさんがいきなり釣竿を渡す。

 実際は何と言ったか分からない。本当にブランコ婆あなのかも分からない。今度は釣竿婆あになったのか。これで何を釣ればいい。

 道路から奥まった店の先に広がる山河を見れば、この辺はまだ山に入ったばかりの所だから全く色づいていないはずなのに、ここだけが絵に描いたような秋景色で過激に紅葉している。

 地図上の位地からすると不自然な渓流には鱒だか鮎だか山女魚なのか鮭かも、私を食べてとばかりにわんさか裸で川遊びをしている。

 一匹二匹なら獲って食う気にもなるが、あそこまで大量に泳いでいられると気持ちが悪い。結論として釣るより網の方が早いようだ。

「飯のネタを取って来いってんなら、網貸してくれないかなー」画期的な漁法を提案してみる。

「網は漁協で禁止されてるの! ゴニョ」

 本当にブランコ婆あじゃないのか。何でビールを二ケース積まねばならんのだ。

 谷の下まで気が遠くなるような階段を下りて、いざ釣ろうとしたら竿の先には針がついていない。婆あの嫌がらせとしか思えない。

 今からもう一度あの階段を上って下りて、釣った魚を持って上がるなんてのは御免被りたい。

 手頃な岩を持ち上げて、河の真ん中にある大岩に思いっきり叩きつけてやる。すると下に隠れていた奴がプカーっと浮いてくるから、流された浅瀬で手づかみして魚籠に入れる。

 何回かやれば今日の昼飯のおかずくらいなら獲れるだろうとやっていると、そんな俺の努力を猫が茶店の縁台であくびしながら見ている。御前には頭も尻尾も骨もくれてやらん。

 ゼエゼエやっとの思いで茶店に戻ると、既に飯の用意がされていて、猫はたらふく食ってグッタリ日向で寝腐っている。

「何で魚釣りなんかさせたの?」怒る気にもなれない。力なく婆さんに聞いてみる。

「おんや、釣りにきたんでないのゴニョ。ここに来るのは釣りの御客さんばかりなもんでえーゴニョ」

 どんな育て方をしたらここまでひねくれるのかビビるほど巨大な松の樹に、半分隠れている看板を指している。

「何て書いてあるの?」

「釣り堀。峠の茶屋。御食事できます。ゴニョ」

 釣り堀の所が松の樹でまったく見えなくなっている。そんなのを抜きにしても釣り堀に峠の茶屋はなかろう。

 不味い飯と獲った魚の代金まで払わされた。こうなってくると人様からどう思われようと気にしなくなれるもので、言ったか言わなかったか定かではないが疑問だったことを聞いてみた。

「ビール二ケースってなんだか」

「ねえちゃんから言われてたんだゴニョ」

 ねえちゃんがいるのか、だったらあのブランコ婆あの妹と決めつけて話てもいいのか、なるほど似ているわけだ。

 心の内にしまっておこうとした疑問に、「三つ子だ、ゴニョ」と返ってくる。

 読心術でも会得しているのかこの婆あ、なんだかとっても嫌な予感がする。

 まだ三つ子姉妹の一部が途中どこかで生きて待ち受けているのか、くたばって幽霊になっていて憑りついてくるのか、それとも大人しく埋まっているのか。

 埋まっていたにしても化け出ないよう重石として乗せた墓石に、無理矢理ロクちゃんが突っ込んで骸骨がケラケラ笑って這い出てきそうだ。

 これからロクちゃんで峠越えをしたなら、途中で薄暗くなってくる。

 そうでなくともこの展開からすれば一天にわかに掻き曇り、辺りは昼間と思えぬ漆黒の闇に包まれるとか何とかいっちゃうのが御決りで、どこを通っても悍ましい婆あ三号に出遭ってしまいそうな演出だ。

 ここは何とかここ以外にロクちゃんを停められる所を探して、さっさと酔っ払って寝た方が安全だと判断した。

「この辺に車停められる所ある? 病院とか病院とか病院なんか」できるだけ候補を挙げて聞いてみた。

「病院はあるがのーゴニョ。ここらは三つ四つ山を越えて行かねば平らな所がないんで、駐車場も狭いわゴニョ。ここの他にあんたの車を停めるなら、三キロばかり登った所に田中屋ちゅう温泉宿がありますわゴニョ」

 話しっぷりからしてここは二山先まで殆ど人が住んでいなくて、宿を過ぎたら車を停めるどころか狸にしか出会えない地域らしい。

 ならば尚更、行って宿も駐車場も満杯では今より生き延びるのが難しい遭難者になってしまう。

 三キロ離れているとはいえ他に住んでいる人も家もないならお隣さんだ、満更知らない仲でもないだろうから問い合わせてもらったら一部屋開いていた。

 特別室も空いているのだが年間契約されていて紹介がなければ使えない所を、今なら頼めば使えなくもないとも言われたが、どうせ紹介があっても馬鹿高くて無駄に広いばかりの部屋だ。大金は手に入れているが俺とは趣味が合わないに決まっている。

 国道にはなっているが山道の事、直線道路の感覚を忘れるほど曲がりくねった道が続いて三キロ。ロクちゃんを作る時、もう少しコンパクトにまとめておけばよかったと反省しながら宿の駐車場に停める。

 係りが誘導してくれたから落ちなくてすんだが、降りてから車止めをかましてくれと指示されたから持って行くとすぐ後ろは断崖絶壁だった。

 何日か前の大雨被害で対岸の山が崩れ、谷川を塞き止め小さな自然のダム湖が出来上がっている。

 透明度が高くて正確な深さは分からないが、係りの話しでは十米以上はあるらしい。

 本来ならこの真下にこじんまりとした混浴露天風呂があるのだが、今は湖にのまれて立入禁止になっている。

 他に露天はないのか尋ねると、少し上流に三百段ばかり階段を下りたら大きい混浴があると教えてくれた。

 ここまで来てもまだ紅葉には少し早い標高だから、他に何か楽しみ方を探すしかないと道々考えていた。あれこれ努力の観光スポット探しをやらなくても、あったねー。

 ロビーで記帳を済ませると、部屋の準備ができるまで少しの間一階で待たされた。

 何となく見覚えのある内装で、よくある熊と猪に混じって駝鳥が羽根を広げている。邪魔な剥製だ。

 あやふやな記憶の糸をたぐりよせれば、この宿には山城の親分絡みで一度きている。

 付き合いのある組の襲名披露に使われている宿だ。

 早くに付いたからか、部屋はほゞ満室と言っていたのに駐車場に車はなかった。宿の中に客がいる気配もしない。

「いらっしゃいまし、遠い所お疲れ様で御座います」

 聞き覚えのある声で確信した。やはり以前泊まった宿だ。ひょっとしたら婆あの三人目が出て来るかと警戒していたが、記憶の通り真面な女将が顔を見せてくれる。

「とんだことになってしまって、あいにくでしたねー。披露宴は御流れになりましたけど、御部屋はいつも通り御使いいただけますから、係りの者に案内させましょ」

 いつものようにと言われても何のことだか分からない。

「女将さん、勘違いしてないかい。俺はさっき峠の茶屋から連絡したばかりだ。披露宴だとか言ってたが結婚式に呼ばれた者じゃないよ」

「あれま、これは失礼しましたー。襲名披露の御客様名簿に御名前があったものでついー」

 披露宴と言ったのは襲名披露の宴会だった……俺の名前が名簿にあって、襲名披露となると山城の親分が来るとなる。こんな偶然があるだろうか。

「山城の親分は来ているのかい」

「ええ、昨日から御泊りいただいてますが、事が事ですから若い衆連れて病院へ行ったり警察に行ったり、大騒ぎでもう偉い事になってますー」

 非常事態だと気ばかりあせっているようであたふた落ち着かないが、俺は何も聞かされていないし事情も分からない。したがって今ここで女将に色々と聞いてもいいが、なんだかまともに聞ける状態にないようだ。

 山城の親分は何時頃帰ってくるか聞き、着いたら教えてくれと頼んで部屋に案内してもらった。

 部屋で御茶を出す仲居に「今日はやけに閑散としているが何があったんだい」

 襲名披露だというのに人がいない不自然の理由を尋ねると、「あれまー、知らなかったんですか。平和な御人もあったものですー」と驚いている。

「いや、今来たばかりだから」

「新聞もニュースも大騒ぎしてるのに、えらいものですー、大変ですー」今度は笑う。

 そのまま続けて「昨日の御昼頃に、こちらに向かわれていた御客さんのバスが横転して、五人もお亡くなりになってー、重傷で入院されている方も大勢いますー。別便で来られた山城組の皆さんが今もあっちこっち駆けずり回ってるところですー」

 昨日のバス事故とは……困ったことにしっかり関わっている。

「それだけなら事故で済んだんですー」

「まだ続きがあるのかよ」

「大ありですー。襲名披露が御流れになって不機嫌なもので、私等は新しい組長さんを特別室にお通しして誰も挨拶もしないでいたんですー。一通り組の方の動きを指示し終わった山城の親分さんと貫太郎さんが御機嫌伺いに部屋に入ったら、組長さんが眉間に銃弾打ち込まれていて、そうなってくるとバスの横転も事故とは言いきれんとかで警察署がそっくりここまで出張って来て。あーもー怖い!」

 話しよりこの時にこわばった仲居の顔の方がよほど俺には怖かったが、おおむね事情は飲み込めた。

 山城組の連中に怪我がないならあとは他人も同然だから、そんな先の人間のことまで心配してやる義理はない。

 それにしてもかそれだからか、何とか特別室にも泊まれるとか言っちゃってくれていたが……婆あ。いつか殺してやる。

「露天風呂までは三百段だったかな、昔からその露天ってあった?」

「三百二十一段と半分ですー。大昔からあったんですけど、道がなくて一般の御客さんは入れなかったんですー。これはもったいないって言って、峠の茶屋の御婆さんが毎日一段一段二年もかけて作ったんですー。去年から入れるようになったんですー」

「なに、その半分ての。毎日一段二年で三百二十一段と半分て、勘定違ってるし」

「お年寄りだからですー」

 それとこれとは別の問題だと思うが、地元の人間がそう言うならそうなのだろうと納得してやることにした。

 納得したところでひとまずその露天風呂に入ってまったりしてやろう。

「エレベーターどこ?」

「露天に行くんでしたらありませんですー」

 もしかしたらと思って聞いてみたが、やはり階段で行くしかなさそうだ。

 昼に谷底までは一往復しているから、これを入れれば一日で二往復となる。

 三百段の二往復となると四十五階建てのビルを上って下りるのと同じだ。温泉でのんびりする疲れを癒す代償にしては疲労物質の蓄積が多過ぎる。 

 混浴の一語に魅かれて行くのだから、若いのピッチピッチのが入っていなくては行ってもつまらない。

「今日は女性の御客さん泊まっているのかな?」

「いいえー、襲名披露の宴会が入っていましたので貸切ですー。でもー、露天の御風呂は無料ですしー、日帰りとか他に行く途中に寄る方も多いですよ。最近は若い女性にも人気があるようですー」すっかり下心を見抜かれている。

「生ビール一杯もらおうかな、勢いで行かないと三百段はきつそうだ」

「御客さん、御酒は強い方ですか? 階段が狭くなってますから、酔って足元がふらついているようだと、ちょっと行って来いは危ないですよ」

「大丈夫だよ。ビールの一杯くらいじゃ酔わないよ」

「それならお持ちしますけど、ゆっくり酔いをさましてからにしてくださいねー。これ以上死体増やしたくないですから」

 言われなくてもバスの事故で逝っちまった連中の仲間入りをする気はない。

 縁起を担ぐ人間ではないが一騒ぎあった後だし、つまづいたとか滑ってころんだくらいで宿に迷惑をかけるのも気が引ける。

 忠告どうりに呑んでから一時間ばかり横になって風呂に出たから、外は少しばかりひんやりとして薄暗くなっている。

 混浴を楽しむにはいったん外に出て急カーブから十米ばかりの所にある横断歩道を渡らないと、露天風呂のある渓流側に出られない。

 恐ろしいばかりの田舎道でも国道となると他の宿に向かうのや街に帰る車が引切りなしで、駐車場係りの誘導がないといつになっても渡れない。

 すでに階段を降りる前から命がけの混浴露天だ。

 駐車場には何台か車も泊まっているし、中には絶対に若い女しか乗らないようなコテコテ内装を施したミニバンもある。

 これはかなり期待できそうだが、露天に行くならこれを持って行ってくださいとタオル生地のブカブカパンツを持たされた。

 女子の場合も同様の対応となると泊りでない客は、情緒も色気もなく水着で風呂に入って当たり前の顔をしている可能性が高い。

 ここは疲れと快楽を天秤にかけて考えるに、風呂が見える辺りまで下りて行って裸体の有無を確認してから次の行動を起こすべきだと判断した

 数えて百六十一段目、丁度半分の所で風呂の全景を上から確認できた。

 客は三人ばかりで予想は外れたが、一人は男で同じでかパンツをはいているから泊り客のようだ。

 無傷で温泉に入っていられるのだから山城組の誰かだ。

 詳しい話しを聞きたいから丁度いい具合で、そこからずっと奥、街灯から離れた岩陰に人影がある。

 どう見ても女の髪形に色白の小柄な体型で、薄暗がりだがすっかりしっかりスッポンポンなのが分かる。

 これはこのままここから飛び込んでやってもいいくらいの好条件だが、出られてしまっては苦労が水の泡だ。

 パタパタバタバタそのうちドタバタ慌てて下りるとさっとでかパンを履いて、息を整えゆっくりのんびり来たんだぞといった風情で風呂に入って行く。

 てっきり先に入っていた男は山城の者かと思っていたら一度も会っていない若僧で、軽く会釈をするとあちらも「こんにちわ」と挨拶してくれる。

 聞いていた事情と違っているから確認してみたくなった。

「山城組の方ですか?」

「んー、微妙だなー」

 幾分礼儀という所で問題を抱えているとみえる。

 明らかにやっちゃんと同じタイプの人間だ。

 礼儀知らずの相手にはこちらもそれなりの対応をする。

「通りすがりの日帰り入浴ってやつかな」

「いや、泊りだ」

 泊まりで組関係者でないのは俺だけだ。

 本当の事を言っているのかいないのか、嘘をついているにしては妙に落ち着いている

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