ブランコ婆ぁと釣竿婆ぁ

ブランコ婆ぁと釣竿婆ぁ


     画像著作者SandyManase


 深夜の病院には独特の雰囲気がある。

 助かった者や予期せぬ出来事で他界した者の念が混じり合い、それでも静かに漂っている。

 今時の病院はどこも敷地内総てが禁煙になっている。

 愛煙家の患者や職員が隠れ煙草くゆらせるのは毎度も見て来たが、青白い炎の揺らぎはどんな解釈をもってしても煙草の火とは言えない。

 間違っても明かりがないはずの暗闇に、何かがフワフワ見え妙に生ぬるい風が吹き抜ける。

 妙な揺らぎの方を向いていると、同乗している猫も同じボーと眺めている。

「今、何か変なのフワフワしてなかった?」

 言葉が通じるとは思わないが一応猫に聞いてみる。すると「ニャー」と鳴き返してくる。

 時々こいつは人間の言葉が分かっている素振りを見せてくれるから不思議だ。

 同じ不可思議でも猫のは可愛気があるが、目の前にフワフワしているのは歓迎できる奴とは思えない。

 本来いるのない者が近くにうろついていたのでは安心して寝ていられない。

 いくら病院でも本物の幽霊がいるとは信じていないきっと誰かの悪戯に違いない。

「おい」

 少しばかり気合を入れ脅すように声を掛けたが返事ない。

 外に出て揺らぎに向かって二歩三歩近寄って立ち止まる。

 遠くに立っている街灯の光に照らされ薄っすら見えるのは白い木製のベンチで、その向こうに小さなブランコと鉄棒に滑り台がある。

 揺らぎは砂場の真ん中辺りにある。

 病院から、敷地の一部を児童公園にしていると知らされていたが、今の時間にここで遊ぶ者はいないだろう。

 角に立てられた街灯は切れかけていて、一瞬ピカッと光って消える

 公園全体が見えて直ぐ暗闇に呑み込まれるとかえって真っ暗に感じるから余計に薄気味悪い。

 暗い所にチラチラとまた青白いのが揺れ始めると、どうにもたまらなく恐ろしい気配がして一歩も動けなくなってしまった。

 さっきチラリと見えた景色を頭の中で再現すると、ブランコ辺りに揺らぎはあって、ブランコではない大きな物体もぶら下ってフラリフラリと揺れていた。

 恐るゝ「おーい」と声をかける。

 公園の隅に寄せてあるゴミ籠がバッタンゴロン、転がって鉄棒の柱をカーンと叩く音がした。

 猫が驚き、ニャンと飛び上がりざま走って、キャンピング仕様救急車の中に逃げ入ったきり、真ん丸に見開いた目をキョロキョロさせて出て来ない。

 返事がないから、車に戻って懐中電灯を持ち出し公園の方を照らしてみると、ブランコと同じに首へロープをかけた婆さんが、だらしなくぶら下っている。この顔がいかにも苦しそうだ。

 思い切ってぶら下ったはいいが、上手く首の骨が折れないで、細い首を絞めている状態に見える。このままでは苦しいばかりでいつになっても死ねない。

 どうせ死ぬなら楽に逝こうと一気にドンしたのだろうが、計算も何もやらないで実行した首吊りほど苦しい死に方はないのを知らなかったとみえる。

 辛そうなのは観ていて可哀想だ。足をひっぱってやろうと婆さんブランコに駆け寄ってみると、グブブブッっと笑っている。死なねえのかよ。

 近くでライトを当てて婆さんをじっくり観察すると、首にかかっていたロープは喉元を絞めているのではなく、顎と後頭部にタオルを巻きつけてハンガー式頸椎けん引器の真似をしてぶら下っている。

「ばあーさん、こんな夜更けに紛らわしいことしてんじゃないよ。危なく足引っ張るところだったじゃないかー」軽く注意する。

「なーに言うか青二才がー、あたしゃこれでも年季の入った医者だよゴニョ、半人前にとやかく言われる筋合いはないねーゴニョ! それよりもゴニョ、あんたこそ頭の上でチョロチョロしている奴を気にした方が良いんじゃないのかいゴニョ」

 俺の頭をジッと上目遣いに見据え、ぶら下ったまま話すから語尾が何だかゴニョゴニョしているが言いたいことは分かった、ものの、頭の上の奴とは何を指して言っているのか理解に苦しむ婆さんだ。

「ところで、何してんの」

「見りゃ分かるじゃろい、ぶら下がってんのゴニョ」

 ぶらさがっているのは分かるが話しの見えない婆あだ。

「理由だよ、何でぶらさがってんのよ」

「さっき信号待ちで追突事故に遭ってね、むち打ちなのゴニョ」

「突っ込まれたの?」

「突っ込んだに決まっとるじゃろ、追突されるほどもうろくしとらんわいゴニョ」

 十二分に行っちゃってるよ婆あ。

 つまらないことで貴重な夜のひと時を使ってしまった。テレビを見ながらビールでも呑んで寝てやる。

 さっさとこんな所から車に戻ろうと歩き出すと、ロープをたたんで婆あが後からピョコタカ付いてくる。何を考えているのか嫌な感じがするから走ると婆も走る。

「来るなよ婆あ」

「あんたに用事があって来たんだから、来るなと言われても行くよゴニョ」

「ゴニョじゃねえよ婆あ」

 蹴散らしたがはて、俺に用事があって来たといった意味のことを言われたような気がするが……空耳だろう。

 危ないからしっかり鍵を閉めてから外を眺めると、今度はロクちゃん救急車の上からロープをかけて窓の外でぶらぶらしている。ちんちくりんのくせに元気な婆あだ。

 このままでは気持がち悪い。ゆっくり寝られそうにない。それに間違って死なれでもしたら、俺が殺したとも思われかねない状況だ。

 凶暴ではなさそうだから、仕方なく中に入れて事情を聴いてやるとしてみた。

「俺に用って何?」

「んー、わしにはビールないの? ゴニョ」質問に答えるようすはない。

 初対面の人間に対してあつかましくもビールを催促するあたり、病院で威張っている誰かに性格が似ている。

「ビール出してもいいけど、ろくでもない用事とか強請り集りだったら引き回して打ち首獄門にするぞ」

「ろくでもないかあるかはおまえの取り方しだいだ。早くビール出せーゴニョ」

 口惜しいが、どこから湧いて出たか分からない婆あに用事があると言われて、放っておけるほど奔放な人間ではない。

 一番小さい缶ビールを出すと、クッゴックンと一口で呑み切っておかわりを欲している。

 始めからでかいのを出しておけば良かったと思いつつ一番でかいのを差し出したら、これも一気にゴックンゴックンと呑み切ってもう一本と……酔えよ、満足しろよ。

 ウワバミの婆あに憑りつかれ呑ませる事十五本。

「やっと喉の渇きがいえたかねゴニョ。それじゃあ本格的に呑むよーゴニョ」

 とっても付き合いきれないから、漬けていたパイン酒の瓶をそっくり預けて呑ませることにした。とんだ出費だ。

 この悲劇を知ってか知らずか、警戒心など微塵も見せず猫はベットで腹を出して大いびきをかいている。さっきまでのビビリはどこに行ったのか、立ち直りの早い奴だ。

「婆あ、いい加減にして用事ってのを話す気にならないかなー。追い出すよ」

「閑静でいいねーゴニョ」

「へえ、御覧の通りの山里で……じゃねえだろ。用事って何だよ」

「鶯は鳴くかね、ゴニョ」

「ええ毎日のように鳴きます。夏でも鳴きます。だからー何しに来たんだよー」

「聞きたいなら頭の上にチョロチョロしているのに聞きなよゴニョ」

「それだけかよ」

 婆あはそれだけ言うとパイン酒ありがとうと瓶を抱えて闇の中へ吸い込まれるように去って行った。

 三十秒ほどしてガシャーンとガラス瓶が割れる音がしたが、何が割れたにしてももはや俺には関わりの無い事だ。 

 聞こえないふりをしてそのまま寝た。

 寝たには寝たが頭の上にチョロチョロとか言われると気になって仕方ない。

 直ぐに目が覚めて夜中に鏡を見てやる。

 すると、頭の上に陽炎のような揺らぎが弱い光を出してフワフワしている。呑み過ぎたか事故の後遺症で変な物が見えるようになったか。

 他の景色はしっかりしたものだから、気にしなければ何のことはない。鏡も滅多に覗かない人間だし、びびって医者に行って入院となってもつまらないばかりだ。 

 ここは誰にも言う必要のない症状と自己診断して、もう一度しっかり寝るとした。すると今度は朝までぐっすり寝られたのだから、特に問題視する状態でもなかろう。

 が、この症状を婆あが知っていたことが車を走らせ出してから気になってくる。

 医者だと言っていたくらいだから、俺の精神状態を勘ぐれる何等かの症状が外から見て分かったのか……不思議だ。

 あれこれ考えながら渋滞に巻き込まれてノタノタ自家用救急車を転がしていると、ついつい緊急車両だぞとサイレンを鳴らして走りたくなる。から鳴らしてやった。

 大型トラックなみのサイズだから通れる道を作るのは容易ではないが、やればできるもので順繰り端に避けてくれるからズンズン進む。

 やれやれようやく渋滞の先頭だと辿り着いた先にバスが横転していた。

 オレンジ色の服を着た兄ちゃん達がせっせとバスから怪我人を運び出しているところで、御苦労様と一言挨拶してこの場は行き過ぎようとしている目の前に、警官が出て来てロクちゃん救急車を誘導する。

 救急車じゃないから……じゃない、救急車だった。

 ノックもしないでドアを開けたレスキュー隊員が、許可もとらずに中へ怪我人を運び込んでベットの上に寝かせる。

 普段着の白衣を着ていた俺を見るなり後はよろしくお願いしますと言ったと思ったら、患者を置き去りにして出て行く。無責任な奴だなー。俺は医者じゃないし……じゃない医者だった。

「早くしなよゴニョ、患者が死んじゃうよゴニョ」

 どこにいたのか、婆あがいきなり湧き出て俺にああせいこうせいと指図する。

「血の色苦手なんだよ。臭いもダメなんだよー」

「余計なゴタク並べてないで、手伝いなさいゴニョ。後がつかえてんだよゴニョ」

 一人だけかと思っていたら外には何人も怪我人が並んでいる。

「救急車来ないの?」

「この村には一台しかないよゴニョ。重症患者を乗せて隣り町まで行ってるから暫く帰ってこんわゴニョ。ヘリもさっき出て行ったばかりだから、一時間は帰ってこないよゴニョ」

「他からの応援はないのか」

「ない。ヘリだけじゃ。車は出払ってる。ゴニョ」はっきりした婆あだ。

 サイレン鳴らして走ってきちゃった手前しらばっくれる訳にもいかないし、このまま患者を放り出して逃げちゃうのもちと後味が悪い気がする。

 こんな時、猫が手伝ってくれればなーと思うがそうもいかない。しかし、しばらくまともに手術はやっていないし、できない。

「俺、手術できないよ」

「あたしがやるからいい! ゴニョ。それより頭の上の奴に頼んでみろゴニョ。直ぐに手術ができるようになるゴニョ」

「頭の上って」

 鏡を見ると白衣を着た小さな鼠が、「まかせろ」威張った風に胸を張っている。

 それを猫がチャイチャイとからかっているのだから、猫にも見えている白衣の鼠。いよいよ危ない兆候だ。

「頭の上って、これ?」

「そうだよ! ボケナス。ゴニョ。早く御願いして手伝えゴニョ」

 超自然現象に御願いも何も、どうすればいいのか方法も分からない。

「助けろ」端的且つ丁寧に御願いしてみた。

「助けてやる」簡単に承知してくれた。軽い奴だ。

 満員だった観光バスの横転事故は運転手を含めて五人が死亡、重傷の十人のうち四人は救急車とヘリで病院に運ばれたが、あとの六人と軽症の患者まで俺達が面倒見る結果となった。

 瀕死の重傷患者まで運んでくるのだから、婆あだけでは到底間に合わない。

 あたふたしているうちに俺も昔の勘を取り戻したか、何人かの応急処置を熟した。 

 応援が来たのは粗方処置が終わった頃で、重傷患者をヘリに乗せると軽症の者は警察の車が病院まで乗せていく。ロクちゃん救急車に乘ったままで動かせない患者は、このまま近くの病院まで運ぶしかない。

 せっかく渋滞を抜けて次の目的地に向かっていたのに、朝出た病院に逆戻りだ。

 この病院は婆あのホームグランドみたいだし、あまり長居したくない。

「ああ、良いい気分ちだ。御蔭で助かったよゴニョ」

 患者を下ろして逃げようとしていると、婆あが車に乗り込んできて勝手にビールを呑んでいる。

「御蔭で助かったとか言う前に、礼にビールの一ケースも持って来いよ。せめて自分が吞んだ分くらい補充しろ婆あ」正直な気持ちを打ち明けて見た。

「考えておくわ、ゴニョ」それっきり消えて音沙汰がない。フザケタ奴だ。

 緊急事態から解放され夜の国道を走る。

「あれが天狗岩だよ、ゴニョ」いつ乗った。

  突然横に現れた婆あが海に飛び出た卑猥な形の岩を指す。

「何であれが天狗岩なんだよ。どうみたってあれだろ」

「天狗の鼻に似ているから昔から天狗岩だゴニョ」

 ぜったいに間違っている、鼻の形ではない絶対にあれだ。ぶっとばしてやろうと思い婆あを見直すともういない。いかん! 幻覚だー。

 婆あの悍ましさが完全にトラウマになっている。

 今日は近場のドライブインに停めて早く寝た方がよさそうだ。

 天狗岩が見える海辺のドライブインにロクちゃんを停める。婆あの記憶が薄れるのに反比例して、頭の上にチョロチョロしている陽炎の姿がはっきり見えるようになってきた。

 良い傾向ではないが互いに会話を楽しめるようになったらば、猫との三者対談も可能になるのではないかといった考えが浮かんで来る。

 消しやってしまうのが惜しくなった。

 必要とあらば忘れてしまった過去や医学知識を、的確に教えてくれるのだからありがたい現象の一つだ。

 姿は妖精だったり小悪魔だったりと変化するものの、いつも同じ相手と感じる。

 今はフェアリーだから次はピクシーかと、密に楽しんでいる自分が危ない方向に向っているのは分かっている。

 そこで危ない方には向いていないと思い込む為に、こいつにパックという名前をつけてやった。変身上手で悪戯好きだからだ。

 パックは「お告げー」と言いながら現れるのが仕事らしい。予言のつもりだろうが、未だもってこの御告げが的中したことは一度もないと白状した。

 聞いてみるとこいつの予言はノストラダムスのように難解で、どうにでも取れる四行詩だ。当たったのか外れたのかの判定は不可能となっている。

 事故に遭ってからというもの、夜になると時折お出ましになってはならない物体が漂って見えたりしていた。どうせまたそのうち消えるだろうから放置する。

 平均的常識を有した社会人は、これを超常現象とかXファイルとか幽霊等と言うらしいが、これを他人に話すとどこぞの好ましからざる施設に強制収容されてしまうのでダンマリを決めている。

 俺はまず天狗岩を眺めて、次に婆さんを忘れ、三度目には半々に猫とパックの両方を見比べた。

 月夜に浮かぶ天狗岩のシルエットを診た時、やはりあれにしか見えない。

 医師として分析するに、頭の中に存在する婆さんの顔はもうすぐ消えてくれそうだ。したがって、婆さんから天狗岩と吹き込まれたのは幻聴で、実際にはあれ岩と呼ばれているのだと決めた。

 確認の為に岩の下を監察すれば、隣にある鮑貝の身の部分に酷似した岩との間に、ぶっといしめ縄が張られている。二つ合わせて夫婦岩と言うに決まっている。それがベタだ。

 さらにあれ岩の下を見ていくと、一番下には丸い岩が二つ並んでくっ付いている。玉岩とでもしておくべきか、そこへ波がザブンとかかるから、砕け散った波は下の毛そのままだ。

 惜しい事に店は閉まって辺りに人がいないから、本当の名前を知る術がない。

 そうではあるがいかに頑固な脳内婆あでも、ここまで完璧な夫婦岩を目の前にしておいて片割れが天狗岩だと言い続けはしないだろう。

 どうだ参ったか、これはあれ岩と言うんだよと怒鳴ってやったら婆あが完全に頭の中から消え去った。

 さて、パックはどうなったかと車内を見渡せば、猫と仲良くゴロゴロじゃれあっている。

 こいつは暫く俺の前から消えてくれそうにない。

 今日の所は諦めて、明日からの旅に備えよう。

 翌朝には婆あのばの字もなくなってすっきりはっきり脳内は晴れ渡り、俺も真ん前に果てなく広がる海も、豊に穏やかに朝の日に照らされている。と、思う。

 夏も終わりの頃、家出した時はまだ海水浴が出来る暑さだった。

 暫くは涼しい所を廻っていたのであまり暑いと感じなかったせいもあって季節の移り変わりなど気にしていなかったが、幾分涼しくうら寂しい季節になってきた。

 このまま北に向かったのでは北海道に行って帰っての途中で雪が降りだすから、千葉の温暖地仕様ロクちゃんには無理な旅となる。

 しかしながら、ここから素直に来たままユーターンというのも芸がない。

 そろそろ山では紅葉が始まったらしいから、これからは紅葉狩ツアーで山間部を見て回ってから南に進路を変えるとした。

「自然だなー」猫に声をかけて同意を求める。

「ニャー」考えることは猫も人間もたいして変わらない。すぐに了解したらしく、いつもより機嫌のいい声が返ってくる。

 辺りの景色が海から離れ、まだ紅葉していない山道に入ると運転していてもなんだか眠くなってくる。

 猫は手持無沙汰にベットで横になっているのがバックミラーに映っている。

「おーい、暇そうだな」と訊ねた。

「はーい、超暇してまっせー。おっさん、美味い飯屋探して昼にしませんかー」

 確かにそろそろ腹が減って来ても良い頃だが、猫が話すんじゃない。

 どういった奇跡で猫が話しているのか、チョイと路肩に車を停め後ろに回ってようすを見ると、広葉樹からの木漏れ日が作る影が車内にチラチラとしている。

 こいつ目掛けて猛アタックをかましているのは、いつ見ても猫がお馬鹿で滑稽な仕草だが、こちらに話し掛ける風ではない。

「誰だよ!」

 見回せば、まだ消えずにふわふわしていた奴が上から頭をツンツンする。パックかよ。

「腹が減ったから美味い物を食わせろ」

 頭の中の居候のくせに一人前に腹減らしとはタマゲタ。

 どうせ一心同体だから俺自身も空きっ腹であるには違いない、再びロクちゃんを走らせ良さそうな飯屋を探す。

 暫く走ると峠の茶屋という時代錯誤の店を発見した。

 広い駐車場には一台の客もなく、無遠慮にでかいロクちゃんを停めても良さそうな寂れ方だ。

 とかく汚いのに長くやっていられる食い物屋には美味くて安い飯が置いてあるものだ。

 中へ入れば外見から期待していたそのままに、土間の真ん中に設えた囲炉裏には寒くもないのに火が熾されている。

 家人はどこかと厨房らしき方に目をやると、ドキッとするほどブランコ婆さんに背格好の似た婆あが御茶を持ってくる。

 来るんじゃない、せっかく忘れていた忌まわしい過去を思い出す。

「婆さん、元気そうだね」

 ひょっとしてもしなくても同一人物だと困るので恐るゝ訊ねた。

「はい、御蔭さまでーゴニョ。ビールを二ケースばかりうちの者に積ませますから、後で声かけてやってくださいゴニョ」そう言い終わったばあさんがいきなり釣竿を渡す。

 実際は何と言ったか分からない。本当にブランコ婆あなのかも分からない。今度は釣竿婆あになったのか。これで何を釣ればいい。

 道路から奥まった店の先に広がる山河を見れば、この辺はまだ山に入ったばかりの所だから全く色づいていないはずなのに、ここだけが絵に描いたような秋景色で過激に紅葉している。

 地図上の位地からすると不自然な渓流には鱒だか鮎だか山女魚なのか鮭かも、私を食べてとばかりにわんさか裸で川遊びをしている。

 一匹二匹なら獲って食う気にもなるが、あそこまで大量に泳いでいられると気持ちが悪い。結論として釣るより網の方が早いようだ。

「飯のネタを取って来いってんなら、網貸してくれないかなー」画期的な漁法を提案してみる。

「網は漁協で禁止されてるの! ゴニョ」

 本当にブランコ婆あじゃないのか。何でビールを二ケース積まねばならんのだ。

 谷の下まで気が遠くなるような階段を下りて、いざ釣ろうとしたら竿の先には針がついていない。婆あの嫌がらせとしか思えない。

 今からもう一度あの階段を上って下りて、釣った魚を持って上がるなんてのは御免被りたい。

 手頃な岩を持ち上げて、河の真ん中にある大岩に思いっきり叩きつけてやる。すると下に隠れていた奴がプカーっと浮いてくるから、流された浅瀬で手づかみして魚籠に入れる。

 何回かやれば今日の昼飯のおかずくらいなら獲れるだろうとやっていると、そんな俺の努力を猫が茶店の縁台であくびしながら見ている。御前には頭も尻尾も骨もくれてやらん。

 ゼエゼエやっとの思いで茶店に戻ると、既に飯の用意がされていて、猫はたらふく食ってグッタリ日向で寝腐っている。

「何で魚釣りなんかさせたの?」怒る気にもなれない。力なく婆さんに聞いてみる。

「おんや、釣りにきたんでないのゴニョ。ここに来るのは釣りの御客さんばかりなもんでえーゴニョ」

 どんな育て方をしたらここまでひねくれるのかビビるほど巨大な松の樹に、半分隠れている看板を指している。

「何て書いてあるの?」

「釣り堀。峠の茶屋。御食事できます。ゴニョ」

 釣り堀の所が松の樹でまったく見えなくなっている。そんなのを抜きにしても釣り堀に峠の茶屋はなかろう。

 不味い飯と獲った魚の代金まで払わされた。こうなってくると人様からどう思われようと気にしなくなれるもので、言ったか言わなかったか定かではないが疑問だったことを聞いてみた。

「ビール二ケースってなんだか」

「ねえちゃんから言われてたんだゴニョ」

 ねえちゃんがいるのか、だったらあのブランコ婆あの妹と決めつけて話てもいいのか、なるほど似ているわけだ。

 心の内にしまっておこうとした疑問に、「三つ子だ、ゴニョ」と返ってくる。

 読心術でも会得しているのかこの婆あ、なんだかとっても嫌な予感がする。

 まだ三つ子姉妹の一部が途中どこかで生きて待ち受けているのか、くたばって幽霊になっていて憑りついてくるのか、それとも大人しく埋まっているのか。

 埋まっていたにしても化け出ないよう重石として乗せた墓石に、無理矢理ロクちゃんが突っ込んで骸骨がケラケラ笑って這い出てきそうだ。

 これからロクちゃんで峠越えをしたなら、途中で薄暗くなってくる。

 そうでなくともこの展開からすれば一天にわかに掻き曇り、辺りは昼間と思えぬ漆黒の闇に包まれるとか何とかいっちゃうのが御決りで、どこを通っても悍ましい婆あ三号に出遭ってしまいそうな演出だ。

 ここは何とかここ以外にロクちゃんを停められる所を探して、さっさと酔っ払って寝た方が安全だと判断した。

「この辺に車停められる所ある? 病院とか病院とか病院なんか」できるだけ候補を挙げて聞いてみた。

「病院はあるがのーゴニョ。ここらは三つ四つ山を越えて行かねば平らな所がないんで、駐車場も狭いわゴニョ。ここの他にあんたの車を停めるなら、三キロばかり登った所に田中屋ちゅう温泉宿がありますわゴニョ」

 話しっぷりからしてここは二山先まで殆ど人が住んでいなくて、宿を過ぎたら車を停めるどころか狸にしか出会えない地域らしい。

 ならば尚更、行って宿も駐車場も満杯では今より生き延びるのが難しい遭難者になってしまう。

 三キロ離れているとはいえ他に住んでいる人も家もないならお隣さんだ、満更知らない仲でもないだろうから問い合わせてもらったら一部屋開いていた。

 特別室も空いているのだが年間契約されていて紹介がなければ使えない所を、今なら頼めば使えなくもないとも言われたが、どうせ紹介があっても馬鹿高くて無駄に広いばかりの部屋だ。大金は手に入れているが俺とは趣味が合わないに決まっている。

 国道にはなっているが山道の事、直線道路の感覚を忘れるほど曲がりくねった道が続いて三キロ。ロクちゃんを作る時、もう少しコンパクトにまとめておけばよかったと反省しながら宿の駐車場に停める。

 係りが誘導してくれたから落ちなくてすんだが、降りてから車止めをかましてくれと指示されたから持って行くとすぐ後ろは断崖絶壁だった。

 何日か前の大雨被害で対岸の山が崩れ、谷川を塞き止め小さな自然のダム湖が出来上がっている。

 透明度が高くて正確な深さは分からないが、係りの話しでは十米以上はあるらしい。

 本来ならこの真下にこじんまりとした混浴露天風呂があるのだが、今は湖にのまれて立入禁止になっている。

 他に露天はないのか尋ねると、少し上流に三百段ばかり階段を下りたら大きい混浴があると教えてくれた。

 ここまで来てもまだ紅葉には少し早い標高だから、他に何か楽しみ方を探すしかないと道々考えていた。あれこれ努力の観光スポット探しをやらなくても、あったねー。

 ロビーで記帳を済ませると、部屋の準備ができるまで少しの間一階で待たされた。

 何となく見覚えのある内装で、よくある熊と猪に混じって駝鳥が羽根を広げている。邪魔な剥製だ。

 あやふやな記憶の糸をたぐりよせれば、この宿には山城の親分絡みで一度きている。

 付き合いのある組の襲名披露に使われている宿だ。

 早くに付いたからか、部屋はほゞ満室と言っていたのに駐車場に車はなかった。宿の中に客がいる気配もしない。

「いらっしゃいまし、遠い所お疲れ様で御座います」

 聞き覚えのある声で確信した。やはり以前泊まった宿だ。ひょっとしたら婆あの三人目が出て来るかと警戒していたが、記憶の通り真面な女将が顔を見せてくれる。

「とんだことになってしまって、あいにくでしたねー。披露宴は御流れになりましたけど、御部屋はいつも通り御使いいただけますから、係りの者に案内させましょ」

 いつものようにと言われても何のことだか分からない。

「女将さん、勘違いしてないかい。俺はさっき峠の茶屋から連絡したばかりだ。披露宴だとか言ってたが結婚式に呼ばれた者じゃないよ」

「あれま、これは失礼しましたー。襲名披露の御客様名簿に御名前があったものでついー」

 披露宴と言ったのは襲名披露の宴会だった……俺の名前が名簿にあって、襲名披露となると山城の親分が来るとなる。こんな偶然があるだろうか。

「山城の親分は来ているのかい」

「ええ、昨日から御泊りいただいてますが、事が事ですから若い衆連れて病院へ行ったり警察に行ったり、大騒ぎでもう偉い事になってますー」

 非常事態だと気ばかりあせっているようであたふた落ち着かないが、俺は何も聞かされていないし事情も分からない。したがって今ここで女将に色々と聞いてもいいが、なんだかまともに聞ける状態にないようだ。

 山城の親分は何時頃帰ってくるか聞き、着いたら教えてくれと頼んで部屋に案内してもらった。

 部屋で御茶を出す仲居に「今日はやけに閑散としているが何があったんだい」

 襲名披露だというのに人がいない不自然の理由を尋ねると、「あれまー、知らなかったんですか。平和な御人もあったものですー」と驚いている。

「いや、今来たばかりだから」

「新聞もニュースも大騒ぎしてるのに、えらいものですー、大変ですー」今度は笑う。

 そのまま続けて「昨日の御昼頃に、こちらに向かわれていた御客さんのバスが横転して、五人もお亡くなりになってー、重傷で入院されている方も大勢いますー。別便で来られた山城組の皆さんが今もあっちこっち駆けずり回ってるところですー」

 昨日のバス事故とは……困ったことにしっかり関わっている。

「それだけなら事故で済んだんですー」

「まだ続きがあるのかよ」

「大ありですー。襲名披露が御流れになって不機嫌なもので、私等は新しい組長さんを特別室にお通しして誰も挨拶もしないでいたんですー。一通り組の方の動きを指示し終わった山城の親分さんと貫太郎さんが御機嫌伺いに部屋に入ったら、組長さんが眉間に銃弾打ち込まれていて、そうなってくるとバスの横転も事故とは言いきれんとかで警察署がそっくりここまで出張って来て。あーもー怖い!」

 話しよりこの時にこわばった仲居の顔の方がよほど俺には怖かったが、おおむね事情は飲み込めた。

 山城組の連中に怪我がないならあとは他人も同然だから、そんな先の人間のことまで心配してやる義理はない。

 それにしてもかそれだからか、何とか特別室にも泊まれるとか言っちゃってくれていたが……婆あ。いつか殺してやる。

「露天風呂までは三百段だったかな、昔からその露天ってあった?」

「三百二十一段と半分ですー。大昔からあったんですけど、道がなくて一般の御客さんは入れなかったんですー。これはもったいないって言って、峠の茶屋の御婆さんが毎日一段一段二年もかけて作ったんですー。去年から入れるようになったんですー」

「なに、その半分ての。毎日一段二年で三百二十一段と半分て、勘定違ってるし」

「お年寄りだからですー」

 それとこれとは別の問題だと思うが、地元の人間がそう言うならそうなのだろうと納得してやることにした。

 納得したところでひとまずその露天風呂に入ってまったりしてやろう。

「エレベーターどこ?」

「露天に行くんでしたらありませんですー」

 もしかしたらと思って聞いてみたが、やはり階段で行くしかなさそうだ。

 昼に谷底までは一往復しているから、これを入れれば一日で二往復となる。

 三百段の二往復となると四十五階建てのビルを上って下りるのと同じだ。温泉でのんびりする疲れを癒す代償にしては疲労物質の蓄積が多過ぎる。 

 混浴の一語に魅かれて行くのだから、若いのピッチピッチのが入っていなくては行ってもつまらない。

「今日は女性の御客さん泊まっているのかな?」

「いいえー、襲名披露の宴会が入っていましたので貸切ですー。でもー、露天の御風呂は無料ですしー、日帰りとか他に行く途中に寄る方も多いですよ。最近は若い女性にも人気があるようですー」すっかり下心を見抜かれている。

「生ビール一杯もらおうかな、勢いで行かないと三百段はきつそうだ」

「御客さん、御酒は強い方ですか? 階段が狭くなってますから、酔って足元がふらついているようだと、ちょっと行って来いは危ないですよ」

「大丈夫だよ。ビールの一杯くらいじゃ酔わないよ」

「それならお持ちしますけど、ゆっくり酔いをさましてからにしてくださいねー。これ以上死体増やしたくないですから」

 言われなくてもバスの事故で逝っちまった連中の仲間入りをする気はない。

 縁起を担ぐ人間ではないが一騒ぎあった後だし、つまづいたとか滑ってころんだくらいで宿に迷惑をかけるのも気が引ける。

 忠告どうりに呑んでから一時間ばかり横になって風呂に出たから、外は少しばかりひんやりとして薄暗くなっている。

 混浴を楽しむにはいったん外に出て急カーブから十米ばかりの所にある横断歩道を渡らないと、露天風呂のある渓流側に出られない。

 恐ろしいばかりの田舎道でも国道となると他の宿に向かうのや街に帰る車が引切りなしで、駐車場係りの誘導がないといつになっても渡れない。

 すでに階段を降りる前から命がけの混浴露天だ。

 駐車場には何台か車も泊まっているし、中には絶対に若い女しか乗らないようなコテコテ内装を施したミニバンもある。

 これはかなり期待できそうだが、露天に行くならこれを持って行ってくださいとタオル生地のブカブカパンツを持たされた。

 女子の場合も同様の対応となると泊りでない客は、情緒も色気もなく水着で風呂に入って当たり前の顔をしている可能性が高い。

 ここは疲れと快楽を天秤にかけて考えるに、風呂が見える辺りまで下りて行って裸体の有無を確認してから次の行動を起こすべきだと判断した

 数えて百六十一段目、丁度半分の所で風呂の全景を上から確認できた。

 客は三人ばかりで予想は外れたが、一人は男で同じでかパンツをはいているから泊り客のようだ。

 無傷で温泉に入っていられるのだから山城組の誰かだ。

 詳しい話しを聞きたいから丁度いい具合で、そこからずっと奥、街灯から離れた岩陰に人影がある。

 どう見ても女の髪形に色白の小柄な体型で、薄暗がりだがすっかりしっかりスッポンポンなのが分かる。

 これはこのままここから飛び込んでやってもいいくらいの好条件だが、出られてしまっては苦労が水の泡だ。

 パタパタバタバタそのうちドタバタ慌てて下りるとさっとでかパンを履いて、息を整えゆっくりのんびり来たんだぞといった風情で風呂に入って行く。

 てっきり先に入っていた男は山城の者かと思っていたら一度も会っていない若僧で、軽く会釈をするとあちらも「こんにちわ」と挨拶してくれる。

 聞いていた事情と違っているから確認してみたくなった。

「山城組の方ですか?」

「んー、微妙だなー」

 幾分礼儀という所で問題を抱えているとみえる。

 明らかにやっちゃんと同じタイプの人間だ。

 礼儀知らずの相手にはこちらもそれなりの対応をする。

「通りすがりの日帰り入浴ってやつかな」

「いや、泊りだ」

 泊まりで組関係者でないのは俺だけだ。

 本当の事を言っているのかいないのか、嘘をついているにしては妙に落ち着いている。

「山城組の者以外は大怪我してるか霊安室だろー。あんた何者」

「山城の爺さんに仕事を頼まれてさ、急ぎだって言うからわざわざここまで来てやったのにこの騒ぎだもんなー。やってらんねえよ」

 たいていのことは組内で解決する山城親分が、組の者以外に仕事を頼むとは珍しい。

 どういった仕事の依頼なのか聞き出そうと、質問の内容を頭の中で整理していると突然渓谷にけたたましく木霊する声。

「やはり入ってきたねー。スケベ丸出しだねーこの男はまったくー。ゴニョ」

 ヌフフフのうら若き乙女のいるべき岩陰から、忘れてしまいたい過去の声が聞こえてくる。

 これくらいで治まってくれればよかったのに、引き続く幻聴がチャプチャプと湯の中を歩いてこちらに近づいてくる。

「あんたの知り合い?」隣りの失礼男が聞いてくる。

 そう言うからには幻聴ではない。

 しからば今俺が置かれている状況を冷静になって分析すると、上から見た時は絶対にヘコピコピチギャルに見えた二人が、実際は悍ましいブランコ婆あと釣竿婆あで、その二人がこちらに近づいてきているとなる。

「ねえ、あんたの知り合いかって聞いてるんだけど」

 把握した現状から更に分析すると、失礼男は二人の婆あを見て指差しながら俺にこの問いを投げ掛けている。

 見てはならない物かどうかの区別もつかない大馬鹿野郎の戯言などどうでもいい。ここはじっと固まって、間違っても二婆を見ないようにしているのが賢明というものだ。

 三百二十一段と半分、大変な思いをしてここまで来たのにとんだ災難に巻き込まれた。

 大雨のがけ崩れといいバス事故といい新組長の銃殺にしても、こんなに限られた地域に災難が立て続けに起っているのは婆あどもの仕業ではなかろうかとさえ思える。

 羞恥心など数十年前に脳細胞の一部と一緒に消滅しているのだから、きっと一糸纏わぬ姿で俺の頭をペシペシしているに違いない。絶対に目を開けてはいけない。見たら目が腐れる、石にされてしまう。

 婆あの魔力によって石にされたら最期、だれかが退治して首を切り落としたとしても、石が元の姿に戻ることはないと伝説されているはずだ。

「俺に触るんじゃない」

 先程から頭ペシペシ首を絞め絞めしている二人に速やかに俺を解放するよう忠告したが、そんな意見を聞き入れてくれるなら妖怪ブランコ婆あや釣竿婆あなどやっていない。

「だからー、あんたの知り合いなのー、このお嬢さん達ー。僕にも紹介なんかしてくれちゃう気はないのかなー、一人で良い思いしてさー」

 礼儀だけ失った男かと思っていたが、正常な判断能力もどこかに置き忘れている。

「ああっ! 知り合いだよ。御嬢さんじゃねえだろ。婆あ見て欲情してんじゃねえ、トウヘンボク。しっかり現実を見ろ」

 イラッと来る繰り返しの質問に、うっかり俺まで真面な判断が出来なくなった。

 婆あの真の姿を確認させるべくすっくと立ちあがり、失礼な馬鹿男君の髪の毛を掴んで婆あの胸元に顔を押し付けてやった。

「いいんですかー。霊ちゃん感激っすー」

 急に敬語らしき言葉を発してメロメロになっている。どれだけ溜めたらここまで発情できる。

「こんな婆あのどこがー!」

 うっかり片割れに触れてしまった。呪われる。

「ここから他の宿までは二つか三つ山を越えた先だったかね」と、別なことを聞いて祟られないようにごまかして見る。

「はい、瞳と申します。これは文恵で今日は来ていませんがもう一人も医師をしていまして名は美絵で……」

 婆あがこれまた明後日の答えをする。

 鈴が鳴るのと同じに聞こえるのは谷川のせせらぎか湧き出す温泉の音か、それとも昨日今日と聞いた婆あの声に一千倍ほどの張りと潤いを与えた声か。

 うっかりついでにすっかり暗くなった露天の街灯に浮かぶ二婆あの顔姿を目視すると、失礼男がヘロヘロになるのが分かる妖艶さだ。

 容姿端麗とはこの二人を言うのであろう、おまけに瓜二つして並んでいる。

 もっとおまけに羞恥心だけは数十年前に消失したままだから理想的な出で立ちとなっている。

「部屋が開いていれば、もう少し逗留しようかと思うが、どんなもんですかね、瞳さん」

「いえ、戦争が始まりましたから、明日の朝には出立された方がよろしいかと、そちらはお立てにならず」

「戦争とは妙なことを言うね。それにそちらとはどちらか、こちらは何だ、そのあれが何だそうなのだよ」

「いえ、御頼みになられても困ります」

 ここまで話しが絡まって何が成長してしまうと収拾がつかない。

 カペガベのフニャしわカップ麺婆あが、風呂に浸かって水分補給しだだけで今の状態になったなら、時が過ぎれば伸びきってデロデロになるか再び乾燥してあっちもこっちもカチコチで痛いばかりになる。

 ブランコ婆あが妖怪ぶら下がりで釣竿婆あが物の怪針なしでもかまわない。

 すでに失礼男は文恵と名乗ったぶら下がりか針なしと岩向こうの暗がりに行って、いやらしくも嬉し恥ずかし声が渓谷に浸み入っている。

 大雨の後で地盤が緩んでいるのに、この勢いでドンドン声が大きくなって行くと数分であっちもこっちも山崩れを起こしかねない。

 早く行ってしまえ。

「宿屋はたった一軒だと言っていたよね」

「はい、申し上げました。それがなにか」

「いや何となく聞いただけだ、こっちにも色々と都合があるのだよ。それよりどうしてそんな姿になったのか知りたいのだが、医師としてだね、その何だ触診してもいいかな。乳癌とかの診察もしてあげたいし、できればもっと女性的な病気の検査もしておいた方が良いような気もするし。ところで、瞳さんはブランコと釣竿のどちらが好きかな」

「釣竿はしっかりしていても細くてフニャフニャですもの、行ったり来たりいつまでも遊べるブランコがいいですわ。それよりも、こんな私が医の道でお役にたてるなら、診立てて下さっても結構ですわ」

 ここから先は想像に任せて次の場面に進めさせてもらうが、苦情は一切受け付けていないから……宜しく。

 風呂からあがって息まであげて、それからさらに三百二十一段と半分の階段を上ったから失礼男と二人で道路を渡る前に精魂尽き果てた。

 駐車場に停めてあったロクちゃんに隠し合鍵で入ろうとしたら、山城親分に声を掛けられた。

「来てくれたのかい先生。招待状は出したが家出したって聞いていたからねー。呼んでおいて何だが先生と霊が一緒ってのも珍しいもんだね。知り合いだったのかい」

「いえ、偶然ですよ。通りかかったらここしか宿がなくて。この人、霊さんて言うんですか。下の露天で一緒になったんですよ」

「最近入れるようになった露天かい、入りたいとは思うが階段がねー、この歳じゃ無理ってもんでなー」

「そんなことないですよ、もっと高齢の人だか妖怪も入ってましたよ」

 この言葉に霊が俺の方を二度見して違うだろうと訴える。真実は知らない方がいいから、この訴えは却下無視してやると親分が話しを進める。

「キャンピング救急車ってのはそれかい。いつもはそこに寝泊まりしているって聞いたが、今日ばかり温泉ってのもただの偶然とは思えねえや」

「途中で色々ありまして、何だか物騒な話しも聞きましたが、大丈夫ですか」

「なーに、あっしには関わりのねえこってござんすだよ。気にしなさんな。それより久しぶりに一杯どうだい」

 親分に誘われるまま一階にある囲炉裏焼きで呑み始めたのはいいが、事件があったばかりだから周りをぐるっと囲むように子分衆が座っているから落ち着かない。

 一緒に飲み始めた失礼男の霊が仕事の件を持ち出す。

「親父さん、仕事って何」

「ああ、御前さんに頼みてえのはよ、アメリカのデトロイトって所に飛んで行って若頭を探してほしいんだ。組の者に米語が真面に話せる奴がいねえんで御前さんに頼むんだが、引き受けてくれるかい」

 山城親分の引き受けてくれるかいは御願いの体をなしているが命令と同じで、仕事の内容を聞いておいて断ったりしたら後が怖い。

「金がなくて暇があるから断りはしないよ。だけど、俺だって命は惜しいっす。どんな人間を相手にするのか知らないんじゃ、アメリカまで行っても何をどうしていいか分かりませんね。若頭、何をやらかして逃げてるんですか」  

 組の長が組運営の頭を探し出してくれと依頼しているのだから、当然俺も組の金を持って逃げたかくらいに思って聞いていた。

「逃げたんじゃねえから厄介なんだよ。行方不明になっちまったんだ」

「どういったことです」つい俺もその気になって身を乗り出す。

「先生になら言ってもいいだろうから話すがね、子供を引取りに行った先で消えちまったんだよ」

 山城親分は戦後間もない頃から、身寄りのない子供を引き取って育てている。

 今では世界中で悪さをして組に上納金を納めるまでに成長した子もいて、良い事はしておくものだと日頃から俺達に自慢している。

 俺は組で引き受けた子の健康診断や風邪をひいたとか怪我をしたとかしょっちゅうだから随分前から知っていたが、実体を知っているのは組と親しい付き合いのある限られた者だけだ。

「いつも金がねえ金がねえって言ってたけど、そんな所に使ってたのかよ。極道が死ぬ前に仏になってたんじゃ格好つかねえもんなー、そりゃ誰にも言えねえや」

 組下の仕事をたまにやっている程度の霊は知らされていないから、ここで始めて事情を聞いて感心している。

「そうだったな、霊には一度も話してなかったなー」  

 単なる言い忘れか故意に教えなかったのか、これくらいの歳になると判断が難しいところで、何かの行き違いや不都合はボケたふりをして誤魔化すのが親分の常套手段だ。

「親分は顔が広いからこの近所に住んでいる文恵とかいう娘を知ってるかな。仁徳の塊みたいになってるから親分が口きいてくれるとまとまると思うんだけど、あの娘を嫁に欲しいんだよ。なんとか引き受けちゃくれないかね」 

 霊がどのように考えてもやり足りないだけの欲望としか取れない決断を、突然話しの脈絡を無視して山城親分に打ち明ける。どこがどんな感じで気に入ったのか、衝動や出来心気紛れ間違いでは済まされない。

「あっしの聞き違いでなかったら、今御前さんは近在の文恵って言ったようだが、それでいいのかい。間違っちゃいないかい」

 親分は霊と目を合わせないように刻み煙草を煙管に詰めると、炉端の炭火で点けて大きく一服吸い込んだ。

 落ち着いているふりはしているが、吐くのを忘れているから顔が赤くなって青くなってゲホゲホと大げさにむせる。

「ああ、瞳と美絵の間の三つ子の一人だ」

 この時、本当のことを教えてやろうかどうか迷ったが、煙草を吸う親分のようすからして事情は俺より知っていそうだから黙って成行を見守ってやるとした。

「そりゃめでたいというか、御愁傷様というか。確かに知っちゃいるが……もう一度訪ねるが、本当にあの文恵でいいのかい。後悔しないかい」

 あの文恵ときたからには親分も昔々御世話になった口で、あれから何十年たったろうか俺はこうなっちまったが、あいつは今も現役バリバリでこんな若僧まで垂らし込んでいやがるといった思いがヒシヒシ伝わってくる。

「絶対後悔しねえ。オリンポスの山に誓う」

 この場合は絶対に後悔するからと止めてやるのが人情というものだと思って今日まで生きてきた。親分は一本道を究めた義理人情に分厚い世界で生きている男だから、どんなことがあってもこの婚姻はやめさせると見ていたが、物の怪針なしには二三人殺しを請け負っても返しきれない義理があるらしい。

「そりゃ御前さんからどうしてもって頼まれりゃ断りはしねえが、いつ一緒になろうってんだい。俺だってあいつだってそう長くは生きちゃいねえ、できるだけ早え方がいいよ」

 親分は自分の寿命より文恵の残り時間を気にしているとしか思えない。

「今すぐでもいいや。宿は貸切りで払いは済んでいるんだろ、襲名披露が御流れになったから宴会の準備は出来ていても使い道がねえとなったら、どうせ山城組の人間しかいないんだからそいつを使って俺の披露宴てのしてくれよ」

 馬鹿もここまでくると天才と紙一重か天才そのものだ。人六人殺され襲名披露の元になっている組がそっくり病院送りにされているって時に、よくも宴を横取りしてくれなどと図々しいことを言えたものだ。

「そりゃいい考えだ、折角用意した物を食わずに棄てるなんてのはコンビニが許しても俺の人生が許さねえと常々思っていたところだ、さっそく女将と相談して祝言の支度さしてもらうぜ」

 親分も人が悪いのか良いのか、親切なのか意地悪なのか。

五分もしないで婿殿は支度しなさいと仲居に引かれ奥の間に入って行く。動きの速さが尋常ではない。

 元々この祝い事自体が真面でないからこの程度の非常識は許容範囲のようだ。 

 しばらくすると、「はい、今晩は」

 実物の馬子が宿前にとまって大きな声をかける。

「おお、源さんきてくれたかい。とっくに馬子なんざやめちまったと思ってたぜ」

「親分の頼みだ、馬さえいれば引き受けるさ」

「そうかー嬉しいね。峠の茶屋から文恵に白無垢着せて乗せてきてやってくれ」

 親分が女将から柳行李を受けそれを馬子の源さんに渡す。

「女将から聞いていたから驚きはしねえが、本当に文恵でいいんだろうね。親分もとうとう年貢の納め時ってか」

「おいらが嫁にとろうってんじゃねえんだ。組に出入している若いのが見初めちまって、面倒見てやることになったんだ。勘違いしなさんな」

 実物の文恵を知っている者なら親分の相手だと思って当然で、「困ったな」と、源さんが馬の鼻を撫でる。

 記念の動画を残したいと霊がわがままを言うものだから、俺まで写真屋の真似事をやらされ峠の茶屋でカメラを構えている。

 人里離れた茶屋から宿まで馬子に引かれた白馬がゆるりゆるりと道を行くと、渓谷に枝繁き紅の葉がひらひらと舞い、白馬の背が揺れるまま任せた白無垢へ一枚二枚落ちる。 白に紅にと艶やかな文様となって月灯りに浮かび上がれば、谷を隔てた山の獣道に狐火が長い行列を作る。

 こんな映像を残していいのかどうか悩むところだが、本人も残してくれと深く角隠しを被って、花嫁衣裳と道中の景色しか映っていないのだからこれでいいい。

 霊の披露宴は妙なことばかりだ。

 宿へ着いたのは夜の十時頃で、足を肩幅に開き後ろ手に組んだ厳つい黒服の男達が、馬路の両側に構え宿の玄関まで繋がっている。

 馬が到着すると大きな声でおめでとうございますと一斉に発し、花嫁が馬から降りるまで最敬礼したまま微動だにしない。

 浴衣に着替えてから宴席にと案内されるまま女将に付いて行くと、ロビーから締め切られていた大扉の向こうへ行き一本道だがクネクネとして方向が分からなくなるトンネルのような道を歩かされ、しまいには百畳もあるだろうほどの大広間に通された。以前来た時とは勝手が違う。

 広間には宴の膳立てがしてあって、上座には白無垢と紋付羽織袴が窮屈そうにしている。

 その向こう側で渓谷の流れと紅葉が朱色の灯りに照らされると、新郎新婦が背景と一体になり一枚の屏風絵にも似た景観となっている。 

 広間の左右に設けられた扉を開けると渓流へ出られるようになっていて、下流に二分ばかり歩けば階段下の混浴露天風呂に出られる。

「何でこの道教えてくれなかったのかなー」

 三百二十一段と半分の過激な階段を上り下りするよりスロープになったこの道の方がずっと楽だったから、軽く女将に抗議してみた。

「ここは峠の茶屋の御婆さんが御風呂までの階段を作る時に、孫娘の嫁入りが決まったら使うつもりで石を切り出した痕です。開放していなかった部屋ですし、今日の宴会が終わったらまた暫くは開かずの間になります」

 孫の為に婆あ一人でここまで掘って切ってやれるとは恐ろしい破壊力だ。使い方を一歩間違ったら人類最強最悪の生物兵器になりかねん年寄り……。

「今、孫の嫁入りって言わなかった?」

「そうですー。文恵さんは峠の茶屋の文恵御婆さんの御孫さんで、名前が同じなんですー」

 部屋係りの仲居が話しに割り込んできた。

 三つ子が孫なら風呂で一緒したのは、効果が不明な温泉でふやけた婆あではなかったとなる。またここで話しがややこしくなってきた。

 宿に着いた時から部屋への案内に始まり晩飯の配膳も、露天への案内も床を敷いたのもこの小女で、仕事をしながら聞いてもいないあれこれまで話してくれるのだから人一倍噂好きの性分と見える。

 女将に聞くより知っていそうだし教えてくれそうだ。

 壊すばかりの不器用者ばかりと普段はいじらせてもらえないカメラで遊びたいから、宴が始まれば組の誰もがカメラマンをやりたがる。

 俺が写真屋でいる必要はない。

「ちょっと詳しく話しが聞きたいんだけど、ここじゃその何だから、俺の部屋に来てくれないかな」

 下心は全くなかったのに言い方がいやらしかったのか鼻の下が酔って伸びていたか。

「やっダー! 床の支度が終わっている部屋に仲居を呼び込むなんて、随分安くみられちゃったですー。私ってそんなに軽く見えますー」

 怒っているのか喜んでいるのか、愛想笑いだか愛想つかしだか、非常に分かり難い顔で俺の背中を思いっきり平手で叩く。

「いや、そんなつもりじゃないよ。さっきしっかりその何だ何がなにしたから、そんなに元気はない」

「御客さーん、それってうっそー。ブッブー。発射タンク取っちゃったから出る物ないのに、ボッチ神経は切れてないっすから何度でも行けちゃうよって言ってましたー。筋金入りの連続助兵衛ですー」

 どうしてそんなに奥深い俺の事情まで知っている。こいつが持っているのは並の情報量ではない。

「いや、それはそれで、これはこれだから」

「同じようなこと、さっき露天で言ってましたですー」

「おまえ、露天覗いていたのかよ」

「違いますー。担当の御客さんが旦那一人だったし、暇だから私も一緒に御風呂に入っていたんですー。誰も気付いてくれなかっただけですー」

「一緒に入っていたって、どこにいた」

「脱衣所の横に立てかけてあるよしずの裏側ですー」

「そういうのを覗きって言うんだよ」

「混浴の御風呂で見られたら困ることしてたのは御客さん達ですー。私が出て行ったら今日の披露宴はありませんでした。覗きじゃなくて影の功労者ですー」

「その辺の所はウヤムヤにして納得してやるから、兎に角話しを聞かせてくれよ」

 この場合は当たり障りのない程度に、できるだけ低姿勢で御願いした方が後々都合がよさそうだ。

 下の具合については手術した女医以外は知らないはずなのに、どこまで俺の何事情を知っていて、誰からこの個人医療情報を入手したかも聞き出したいところだ。

「こーら、意地悪しないの」

 席を外していた女将が戻ってきて、笑いを堪えきれない風にクックッと肩を震わせながら仲居に意見する。

「はーい。御客さんの部屋に行きましょ」

 仲居が素直に宴席を離れ、俺より先にロビーへ向かって走りだす。

 宴会といっても一ノ膳二ノ膳と順繰りに出した後は酒を運ぶだけで、それも殆どが三下の役どころとされている。 宿の係りは片付けまでたいして仕事がない。

 夜通しの披露宴になるから仲居は交代で当番するようになっているが、女将から用事を言い付かれば大威張りで休憩に入れる。

「ただでは教えませんですー。これ買ってあれ買ってですー」

 安い女じゃないとついさっき言ったばかりなのに、舌の根の乾かぬ内に土産物の髪留めと帯留めを手に取っている。

 よく見ればまだ若いのに化粧っ気もなく、帯留めをどこかに置き忘れてしまったと赤い帯紐を桜結びにして、長い髪は器用に丸め頭の天辺で赤い箸を突き刺し結っている。

 さっきまで威勢よく走りまわっていたのが、休憩となると急に動きがのろくなる。右左ハッキリとした性格らしい。

 話しを聞くとして出てきたが、曲がりくねったトンネル通路をほろ酔いでフラフラきたからこちらは疲れが出ている。

 既に宿の玄関は締め切られ鍵のかかったロビーにいるのは俺と仲居の二人だけで、外に繋がれた白馬がジッとこちらを見ているのが気になる。

 仲居は俺の部屋番号を記帳し勝手に土産物の中から地ビールや酒を持ち出すと元気を取り戻して、俺の袖を引っ張り部屋へと足早に歩き始める。

「何が知りたいんですか? 山城組の方達を接待する寄合だからって、港屋から女将さんに言われて来ただけの臨時ですー。期待されても大したことは知りませんよ」

 ここまで来てそれ言うかな……。

「港屋って、銚子の?」

「そう、その港屋ですー」

 袖を引かれて歩いていると、随分と昔に同じような経験をした気がしてくる。

 まだ脚力に自信があった頃に自転車で、実家のある成田から養老渓谷を抜け鋸山まで行って、そこからさらに白浜・鴨川・勝浦・御宿と走り、一宮で九十九里浜へ入ってから銚子まで浜伝いに走ったことがある。

 そんな御遊びでいつかどこかも忘れたが、風呂上りに海岸でビールを呑んでいたら女が赤ん坊を抱いて沖に向かって歩き出した。

 風は止んでいたが海は前日の嵐に大荒れで、どんなに俺が盆暗でも入水自殺だと分かった。

 とんでもない場面に出くわしちまったと思ったが、放って見物していられる人間ではないから、慌てて宿に戻り救命胴衣を借りると沖へ泳ぎ始めた。

 防衛大で受けた訓練の知識があったのだから、こんな時は一人で動いちゃいけないのは分かっていたはずが、いざ実践となると分別がつかなくなっていた。

 遠くに船の灯りが見えた時、俺の意識は朦朧としていたが、それでも赤ん坊だけは必死で抱えて離さないでいた。

 翌日になって母親は亡骸で発見されたが、身元が分からないから赤ん坊はそのまま施設あずかりになる筈だった。

 俺がそんな関りのある子供のことを山城親分に話したら、どんな手を使ったのかその日のうちに組の若いのが引き受けにきた。

 何年かして港屋に行ったら親分からあの時の子だと会わされたのが亜樹絵と名付けられた女の子で、何も知らないはずなのに俺の浴衣を引っ張ってニタニタしながら鼻水をなびっていた。

 この頃、宿ではもう一人身寄りのない子をあずかっていた。

 神社へ初春詣でに行った時、大女将が捨てられているのを見つけたから葉瑠美と呼ばれていて、嫁に入って早くに旦那を亡くした女将の後を継いで将来はこの宿を二人で切り盛りするんだよと大女将がちっこい子に色々と教えていた。

 葉瑠美は出たがりで客がいてもひょいひょい宿の中をうろついていたから何度か行き会っていたが、亜樹絵は人見知りで救った時とこの日港屋で一度会ったきりだった。

 女将の実家で宿仕事の修行をしていると聞いたが、さて。

「葉瑠美は元気にしているか?」

「うん、一生懸命勉強している。博士になるんだって」

「おまえ、亜樹絵だろ」

 幾分自分の考えに自信がなかったのでしり上がりに聞いてみる。

「知ってると思った」

 聞き方が気に入らなかったのかぶっきら棒な返事が返ってくる。

「知る訳ねえだろ。鼻垂らしのガキの頃に一度見たっきりだぞ」こっちも少し不機嫌に言ってやる。

 部屋に入ると亜樹絵はビールも酒も菓子も全部いっぺんに開けて、聞いてもいない三婆あのことをしゃべりだした。

「瞳ばあは病院で整形外科の御医者さんで、文恵ばあは釣り堀のオーナー兼この宿の共同経営者。この温泉は文恵ばあが掘り当てたんですー。それから、美絵ばあはおじさんの診療所の近くで病院の院長さんやってますー。三つ子なんだけど、文恵ばあの孫も三つ子だったからって同じ名前つけたの。御風呂で瞳さんがゴニョって瞳ばあの真似しておじさんのことからかってたんですー。これがややこしくなってる理由ですー」

「じゃ、俺と……もういいか」

 聞いてもどうにもならないから聞くのを途中でやめた。

 話し終えると勢いつけて菓子も酒も一人でペロリと平らげ、風呂に行くと言って俺まで引っ張り出した。

「一緒に入ろ」酔っているのか目が赤い。

 酔った勢いでニョへペコなどしたら後で何を言われるか分からない。ここは無難に遠慮すべきだが心と体のバランスが悪く、足が勝手に女湯へ入っていくから上の体も付いて行く。

 亜樹絵は何のためらいもなく帯をとき、着物を素早くたたんで先に入ると俺を呼ぶ。

「背中流したげるから、早く来るんですー」

 まったく期待していなかった展開ではないが、一晩に二度も感動的な場面に出演できるとは思っていなかった。

 気持ちの準備はできていないのに、こいつの準備はしっかりできている。

 年甲斐もなく若僧のようにこれしきのことで素直にビンビン物語では、経験も思慮も抑制力も不足していると笑われそうだ。

 出来うる限りの平静顔で背中を流してもらい、一緒に湯舟に浸かって二三分。俺だけが気まずい雰囲気を醸し出していると、亜樹絵はサッとあがって浴衣に着かえる。

「年寄りの長湯は体に悪いんですー。先に行ってるよ」さっさと部屋に戻って行く。

 一人女湯にポツンとしているのは傍から見たら痴漢変態の部類だ。慌てて飛び出し部屋に戻る。

「今夜は一緒に寝てあげますー」

 今度は自分の布団を手早く敷き終え、風呂上りの一杯とやり始めた。

「あのさ、さっき安くないって言ってたよね」

「そんなつもりじゃないから、気にしないでいいんですー」

 気にするなと言われて気にしなくなれる男なら、さっきの風呂で前かがみになったりはしなかった。

「おやすみなさいですー」

 良いとも悪いとも返事をする前に、瞬間寝されてはこれから追い出すこともできない。

 冷蔵庫からビールを出してゆっくり呑んでいたら何の勢いも治まってきた。

 さて寝るかと灯りを消して布団に入ると、隣りで寝返りを打ったかゴソゴソと音がする。

「おとうさん、ありがとう」

 寝ているのか起きているのか、月も沈んで今は真っ暗だから何も見えないが、寝言らしき声でこれを言われたら手出しは出来ない。鉄壁のガードだ。

 翌朝、起きると亜樹絵はもう朝げの準備で部屋になく、軽く風呂で眠けを覚まして食事処に顔を出すと、山城親分にこっちへ来いと呼ばれた。

「どうだったい、親子水入らずってのは」

 助けはしたが親子の縁組をした覚えはない。

「親子じゃないでしょう」

 昨夜の寝言に満更でもなかったから、照れながらコップのビールを横取りして呑む。

「あの娘は先生を父親だと思いてえらしいよ。そうしといてやんなよ」

 奪われたコップを取り返して一杯注ごうとしたが、瓶は既に空になっている。

「俺みたいなロクデナシでもいいなら、別にかまいませんよ」

 手を上げて燗酒を二本と頼む。

「死んじまった者を悪くは言いたかねえが、どんな事情があったにしてもだ、赤ん坊だった自分を殺そうとした女が母親で、母娘に辛い思いをさせておいて自分を探してもくれねえんだ。水より薄い血のつながりしな持たねえ男を、父親と思って生きていくよりは楽なんじゃねえのかい」

 親の血よりも濃い盃の酒が縁の世界で生きている親分らしい考え方だ。

 話し終えた所に亜樹絵が酒を持ってくる。

「二人で御風呂入ったこととか、同じ部屋で一緒にお布団でぬくぬくしたこととか、昨夜のことは誰にも言わないでね。内緒にしてくださいですー」

 わざわざ回りに聞こえる大きな声で言うものだから、皆の視線が一斉に俺の股間を突き刺す。

「風呂まで一緒に入ったのか! 一緒に寝て何しちゃってないだろうなー」

 これまた年寄りに似合わない大声で親分が追い込みをかける。

「親子だから、こいつ娘だから。勘違いするんじゃない」   

 ハチの巣にされそうな状況からして、こうでも言わなければ生きて宿から出られそうになかった。

 亜樹絵も山城親分も満足そうにしているから、これで良しとしておこう。

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