16 レバノン内戦(2)

写真は「サブラー・シャティーラ事件」の慰霊碑

【内戦の背景】
事の発端はフランスにあります。宗主国フランスは、元来のレバノン領域(小レバノン)を大幅に越えて、(大レバノン)と呼ばれる元来シリア領域とされるベッカー高原、レバノン北部及びトリポリ市、レバノン南部をも含めて国境線を作成しました。これはマロン派を含めたレバノン独立運動を阻止させたいフランスの分断政策の一つでした。この事がレバノン内戦を誘引する根本的な理由となったのです。

 こうした理由から、レバノンという国家そのものが人工的なものであり、宗派別で国民・国家の意識の濃淡ができます。具体的に言えば、独立運動を牽引したのはキリスト教マロン派とイスラーム教ドルーズ派(国内イスラム教派で3番目の会派)であり、この両派はレバノンに対する帰属意識が高く、一方、イスラーム教スンナ派や同シーア派はもともと小レバノンには少なく、大レバノンに多く住んでいて、彼らの生活圏は元来シリアでありました。ベイルートよりもダマスカスの方に帰属意識が強かったのです。

 パレスティナ紛争でイスラエルに追われたPLOは隣国ヨルダンに逃れました。しかし旅客機同時ハイジャック事件を起こしたことによって、ヨルダンを追放され、ベイルートがこれを受け入れます。しかしPLOの流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975から内戦が発生し、足かけ17年に及んだのです。

【内戦の勃発】
 構図としてはPLO(シリアが支援)を巡って、親シリア、反シリアの宗派対立がまず国内に起きます。それぞれが、民兵組織を持ちます。政府が弱く、国軍が弱いとこういうことになります。ここにシリアが介入してきます。
PLOはイスラエルに攻撃・抵抗する組織です。イスラエルはPLOを保護するレバノンに攻撃をかけてきます。レバノンをめぐってシリア対イスラエルの紛争になります。これが第2の構図です。さらにイラン、イラクが絡まり、仲介調停するアメリカが加わります。そんなことを頭に置いて読んで下さい。

 PLOの流入の結果、流血の事態を恐れたレバノン政府は、PLOに対して自治政府なみの特権を与え、イスラエルへの攻撃も黙認する事となりました。この協定は当初、極秘に取り交わされましたが、マスコミに暴露された結果、レバノン社会、特にマロン派に衝撃を与えました。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立。レバノン国軍にPLOを押さえ込む力が無かった結果の措置でしたが、イスラエルには明確な敵対行動としか映りません。イスラエルは空軍及び特殊部隊を用いて、南レバノンやベイルートを攻撃します。当時のレバノンは一定の空軍力こそ保有していましたが、政治力学的にレバノン国軍はこれに報復することは出来ませんでした。この姿勢はイスラーム教徒の怒りを買う事となります。

 その結果、優位保守を主張するマロン派と、政治力強化を欲するイスラーム教信者・パレスチナ難民との間の対立となります。マロン派は米国・ソ連から様々な重火器を調達し、既存の民兵組織を強化しました。また、イスラーム教徒側もPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、シーア派(民兵組織名はアマル)、スンナ派それぞれが民兵組織を構築していきます。そして1975年に内戦に発展します。ベイルートはイスラーム教徒・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂する事態になります。

 こうしたレバノンの事態に、シリアは当初は中立的な立場から静観していましたが、1976年5月、シリアがレバノン政府の要請に基づいて侵攻します。シリアにとってはドゥルーズ派とPLOの推し進める革命は、イスラエルのレバノン、シリア攻撃を誘発すると考え、PLOを最初は支援したにもかかわらず、軍事力によって急進派のPLOやイスラーム教ドゥルーズ派を制圧したのです。
 シリア軍の行動は当然PLOに不信感を与えます。マロン派内も反シリア・パレスチナを旗印に1976年9月にレバノン軍団(以下LF)と呼ばれる民兵組織連合体を結成します。LFはシリア軍と散発的に衝突し、PLOやドルーズ派とも戦闘を繰り広げます。三つ巴の構図です。劣勢であったLFはイスラエルの支援と介入が不可欠と目論み、内戦へのイスラエル参入の機会を模索します。

 1976年の軍事介入の際、シリアはイスラエルとの間で(実際には米国の仲介を持って)「レッド・ライン」協定と呼ばれる取り決めをしていました。この協定は、軍事介入はあくまで内戦終結を目指すものであり、イスラエルに対する敵対行動でない、という事を証明するものでした。LFはこの協定に着目し、1978年にLF部隊をシリア軍に検問で衝突させ、シリアを誘発させます。これに怒ったシリアは、レッド・ライン協定を無視してマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えます。LFの狙いはあたり、イスラエルは協定違反として、シリアを非難し、特殊部隊と空軍機を出動させ、レバノン南部を占領します。しかし、この占領は国際的批判を免れず、イスラエルはレバノン国軍の元将校であるサアド・ハッダート少佐に占領地を譲渡し、「自由レバノン」軍という民兵組織を結成させ、イスラエルの傀儡部隊として協力させるのです。
 このようにシリア対イスラエル、イスラエル対PLO、マロン派(反シリア)対PLO。そこにイスラエルの傀儡民兵団というなんともややこしい構図が出来上がったのです。

 1982年6月PLOのテロへの報復として、イスラエルが越境して再び侵攻。イスラエル軍はLFやアマルと組んでレバノンに駐留するシリア軍を壊滅させ、西ベイルートへ突入、国際的非難を受けながらもベイルートを包囲。徹底抗戦していたPLOも停戦に応じ、チュニジアへ本部を移します。この戦闘過程で、親イスラエル派の「自由レバノン」軍によるパレスティナ難民の大量虐殺事件(サブラー・シャティーラ事件)が起きます。
PLO部隊撤退後のパレスティナ難民に対する安全保障という名目で、レバノンにアメリカを主力とする多国籍軍が駐留します。多国籍軍はイスラーム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)、結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになります。

 内戦は泥沼化し、レバノンは無政府状態になります。産業は内戦によって崩壊していましたが、あらゆる民兵組織は群雄割拠の無政府状態を利用して、ベッカー高原を中心に麻薬産業を発達させていきます。キリスト教徒とイスラーム教徒はあらゆる場面で対立しましたが、麻薬産業のみにおいては、生産はイスラーム教徒、密売はキリスト教徒という奇妙な「役割分担」が成されていたといいます。1980年代後半に政府が実質的な支配においていたのは電話であり、唯一機能していた政府機関は中央銀行のみであるという状態でした。

 このあとは、各派は細分化し、主義主張の争いから利権の争いに変質して行きます。また、力を発揮できなかった国軍の中からもシリア排除を要求するアウン将軍が台頭してきます。アウンの考えは、統一されたレバノンの回復であり、民兵組織解体による中央集権政府・軍の樹立、シリア・PLO排除によって外国から主権を取り戻すというものでありました。
アウン・LF連合軍には、シリアと対立するイラクが支援に乗り出してきて、イラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供します。

 これに対してシリアは別の政権を担ぎ、ベイルートには二つの政府が存在する状態になりました。アウン派政府軍はキリスト教徒に徹底抗戦を呼びかけます。しかし、イラクは湾岸戦争に突入してそれどころではなくなります。また、イラクから支援を受けていた事から、アメリカなどは、シリア側の政権に正当性を認め、外国からのアウン派政府軍への支援は絶たれます。
 アメリカは、湾岸戦争へのシリア出兵の見返りとして、シリアに内戦終結を一任する事にします。アメリカの後ろ盾を得たシリアは、イラクの影響力排除も目論んで、最も大規模な軍事作戦を行います。

 追い詰められたアウン派はシリア軍と対決します。この戦争は「解放戦争」と呼ばれ、アウンは一時、占領者からレバノンを守る英雄として、マロン派ばかりでなくイスラーム教徒にさえ支持者があらわれたりしましたが、シリアの猛攻の前に敗北。アウンはフランス大使館に逃亡し、亡命を申請します。この総攻撃はレッドライン協定違反でしたが、イスラエルはアメリカの懐柔により、シリアへの非難を控えました。

 こうして、レバノンはシリアの実質的支配下に置かれます。シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラ(PLO撤退後のイスラエル抵抗組織)に対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけました。シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれました。現在も政府高官を含めシリアの影響は強いのです。
©CRUNCH MAGAZINE