9 ソ連の介入・アフガン紛争

写真はアフガニスタンの子供たち

アフガニスタンは人口3000万ほどで、インフラが整備されれば世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られています。しかし石油の産出国ではありません。なぜ、この地が紛争地域となったのでしょうか?

【アフガン紛争に入る前に・アフガニスタンの近代史】
 ロシアの南下政策と英領インドに挟まれた「王政・アフガニスタン」は、19世紀後半、「グレートゲーム」と呼ばれる両大国の勢力争いの只中に置かれていました。英国(英領インド)は、アフガニスタンへの影響力を強めようと、1839、1878年と二度にわたる対アフガニスタン戦争に挑みましたが、後にソ連が苦しむことになる険しい地形がアフガン側に味方し、軍事的には敗退しました。
他方、アフガン側も英国の強い要求に抗し切れず、またロシアの影響力を抑えるため、外交権を英国に譲り渡すなど実質上、英国の支配下(保護国)に置かれることとなりましたその後右往曲折を経て、3度目の戦争になりましたが、戦線は膠着状態に陥り英国とアフガン側双方の厭戦気分もあり終戦を迎え、アマヌッラー国王のもと1919年に英国からの独立を一応果たしました。

 王制のアフガニスタンは第二次世界大戦、戦後と中立政策を標榜し、隣国であるソ連と米国との間での駆け引きの中で舵取りを行ないます。1950年~60年代にかけて両大国によって実施された援助は「冷戦の中での熱い援助戦争」と呼ばれる程でした。
王制のもと、近代化と改革は進められてきましたが、急進派(カブール大学の教師、学生を中心とした中産知識階級)はそれには満足せず、1965年には社会主義を目指すアフガン人民民主党(PDPA)が結成されます。これに対抗してイスラームに基づく国家建設を目指すグループが対抗します。
 1973年PDPAの助けも借りてダウード元首相によるクーデターが起こり、「アフガニスタン共和国」が誕生し王制は廃止されました。

 大統領に就任したダウードは、しかし、ソ連と米国との距離にも配慮しPDPAを排除する動きを見せたため、1978年4月には社会主義革命が起こり、ダウードをはじめとする一族は殺害され、PDPAをその設立当初から率いてきたタラキを大統領とする「アフガニスタン民主共和国」が成立します。
PDPAは権力掌握という目的が達成されるとすぐに、内部抗争を引き起こすことになります。また社会主義政権の一方的な教育制度改革(強制的な識字教育)や女性の社会進出の促進、土地改革等の改革はイスラーム保守層のみならず農村部の地主、一般国民の不満を高めることとなりました。このような混乱の末、タラキ政権はアミン首相によるクーデターで殺害され、アミンが大統領の座につきます。

【ソ連のアフガン侵攻(1979~1989)】
 1979年12月のソ連による侵攻は、国内の抵抗勢力を抑えきれなくなったアミンが、ソ連に軍事支援を要請したところから始まります。ソ連は、最初は世界世論を恐れたのですが、アフガニスタンでイスラーム原理主義の革命が起これば、ソ連国内のイスラーム勢力にも波及するのを恐れたのです。結局、介入を決めます。介入したソ連でしたが、アミンに政権混乱の収拾能力が無いとみると、KGBを使って殺害し、新たな大統領を立てPDPAの政権維持を図ります。
 パキスタン経由で米国の支援を受けたムジャーヒディーン(異教徒からの攻撃に対しイスラーム共同体を守るイスラーム戦士・民兵組織)各派がソ連への攻撃を活発化させました。それによりソ連軍は苦戦を強いられ、同軍の駐留は予想外に長期化、それに伴いソ連側の犠牲者と財政支出も多大なものになったため、結局、当時のソ連大統領ゴルバチョフはソ連軍の撤退を決断します。ソ連邦が崩壊したのはこの2年後であります。

 アメリカが支援したムジャーヒディーンの一派が後に9・11を起こしたとされるウサーマ・ビン=ラーディンなのです。他国への要らぬ介入は結局高くつくのですが、歴史から中々学べていないようです。

【ソ連撤退後のアフガニスタン】
 ソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続きます。1994年頃からパキスタン軍の支援を受けたパシュトゥーン人の武装勢力であるターリバーンが勢力を拡張し、国土の大半を制圧します。しかし、ターリバーン政権はイスラム原理主義的政権であり、同様に原理主義的思想を持つウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダを国内に保護し、テロリストの訓練キャンプの設置を認めていました。ターリバーンのアフガニスタンを承認する国はパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の三国に留まり、国際的に孤立した存在でした。
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