8 パレスチナ問題

オスロ合意で握手するアラファト議長とラビン首相。中央はクリントン大統領

 細かく分割されたアラブ諸国をみてきたのですが、(トルコとアラビア王国を残している)どうしても避けられないのが、パレスティナ問題です。整理してみましょう。混乱の始まりは、イギリスの二股外交は先に述べた通りです。
 その後、イギリスは国際連盟によってパレスティナの信託統治が認められます。そして、第2次大戦が始まるとアラブがドイツ側につかないように協力を得るために、ユダヤ人の建国の問題を先送(制限)にかかります。ユダヤ人たちはイギリスを見限り、アメリカに頼ります。ユダヤ人たちは、最初は入植という形で(土地を買って)、第2次大戦後、移民はナチス=ドイツによるユダヤ人迫害で拍車がかかり、建国運動に繋がっていきます。これにアラブ人たちは反発し、衝突していきます。シオニズム運動についてはイスラエルのところで述べます。
 2000年前に住んでいた、神に約束された地だと言われても住んでいたパレスティナ人は困ってしまいます。1947年に国連(アメリカの後押し)によるパレスチナ分割決議を経て、1948年にイスラエルが建国され、ユダヤ国家が誕生します。

*トルーマンはこう語ったといいます。「ユダヤは票になるが、アラブは票にならない」

【第一次中東戦争(1948)】
 これに対してアラブ連盟(エジプト,シリア,レバノン,イラク,ヨルダン,サウジアラビア,イエメンの 7ヵ国が結成されます。イスラエル建国の翌日にアラブ連合軍(サウジとイエメンは不参加)がイスラエルに対して攻撃を開始します。これに対し、金持ちユダヤのイスラエル軍は第2次世界大戦集結によって余ったヨーロッパの兵器を大量に買いつけ(西側の支援)、さらに大戦を多々抜いた兵士たちも参加する一方、アラブ連合軍は指揮系統がバラバラでした。
 こうした状況下で、実質的にイスラエルの圧勝に終わり、イスラエルは国連による分割案を上回る領土(パレスティナの約77%)を獲得。一方、その他のパレスティナの地域はヨルダンとエジプトによって占領されました。

 また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教にとって聖地となっているエルサレムは、西エルサレムをイスラエルが、東エルサレム(旧市街で聖地がある)をヨルダンが占領しました。こうしてイスラエルは独立を維持し、100万人にも及ぶアラブ人の難民が発生してしまい(パレスティナ難民)、この問題は、引き続いて尾を引いていきます。

【第二次中東戦争(1956)】
 エジプトのナセルは、アラブ人の統一を目指していました。だからナセルはイギリスやアメリカから距離を置き、ソ連側に近くなります。また、反アメリカの中華人民共和国とも国交を結びます。
 この動きに怒った英米は、アスワン=ハイダム(英米資本により建設中のダムで、エジプト国土を緑化させる大規模なダム) への融資を中止します。するとナセルはスエズ運河国有化宣言を出します。スエズ運河はイギリスが占領していました。これにブチ切れたイギリスは、フランスとイスラエルを誘ってエジプトに攻め込み、第二次中東戦争となるのです。
 
 エジプトは負けはじめるわけですが、イスラエルの侵攻の6日前、同じ時期にソ連のハンガリー侵攻が始まります。アメリカはソ連の暴挙としてこれを強く非難し、第三世界へもソ連非難の論調を巻き起こそうと考えていました。しかし、あまりにもあからさまな植民地主義に基づく英仏のエジプト侵攻により、第三世界の非難はむしろ西側諸国へ向いてしまい、ハンガリー動乱を霞ませることになってしまいました。また、ナセルを追い詰めてソ連につくことも恐れたのです。
味方してくれると思ったアメリカでしたが、お叱りの一言で、イギリス、フランス、イスラエルはエジプトから撤退し、何か知らないけどエジプトは第二次中東戦争に勝ったことになったのです。ナセルはアラブから喝采を浴び、男を上げたのです。

【第三次中東戦争(1967)】
 イスラエルがシリア・エジプト・ヨルダンに仕掛けた侵略戦争でした。これは6日間戦争と呼ばれ、アメリカのユダヤ系財閥の支援を受けたイスラエルが圧勝し、シリア・エジプト・ヨルダンは大きく領土を削り取られることになります。 失意の中、ナセルは死去、エジプトではサダト大統領が就任することになります。

【第四次中東戦争(1973)】
 イスラエルに侵略され、領土を失ったサダト大統領は、ヨルダン・シリアとともに復讐戦の計画を練ります。アラブ人居住区だけは何としても取り返さなくてはメンツが立ちません。第四次中東戦争ではいっせいにイスラエルに攻め込んだのです。 この時点でイスラエルはフランスの支援を受けて核兵器*を保有しており、その使用の可能性も囁かれました。今、イランが核保有疑惑で問題視されていますが、イスラエルの核使用は一番可能性の近い問題としてアラブ諸国には感じられているのです。

*イスラエルは、公式には核兵器および他の大量破壊兵器の保有を否定も肯定もしない立場を取っており、中東地域で唯一の核拡散防止条約(NTP)非加盟国であります。アメリカ?見て見ぬふりです。

またしても劣勢のアラブ諸国は、イスラエルのバックにつく欧米諸国に対して、石油の輸出を制限する石油戦略をとります。これが第一次オイル=ショックであります。

 結局、第四次中東戦争にも敗れたエジプト。サダト大統領は「イスラエルと和解する」という決断をします。 もちろん、他のアラブ諸国からすれば、パレスティナ人を見捨てるというエジプトの裏切り行為にしか見えません。以後、エジプトはアラブ人世界からは孤立していきます。
 このサダト大統領の行為に対して国内からも「パレスティナ人を見捨てるのか!」と反発が上がり、サダト大統領は暗殺され、後任にムバラクが就任するのです。しかし、ムラバクの30年の長期政権は行き詰まり、2011年に大統領を辞します。アラブの春です。

【PLOとオスロ合意】
 エジプト・シリア・ヨルダンなんかには、モー、頼っていられないと、パレスティナ内でもパレスティナ人自らでイスラエルを倒そう!という組織的な動きが出始めます。
 指導者はアラファト議長。 PLOはイスラエルを倒すためなら何でもやります。イスラエルはこの動きを徹底的に潰すために、PLOの拠点があるレバノンに侵攻。PLO本部はアフリカ大陸のチュニジアに移され、パレスティナから大きく遠ざかるこになります。

 1987年からはイスラエル支配下のパレスティナで民衆がインティファーダ(蜂起)を開始。民衆レベルでイスラエル政府に対し抵抗運動が広がります。 このような情勢の中、1991年にマドリードでアメリカが主宰する中東和平会議が開催されます。その後双方に友好関係を築いていたノルウェーの尽力により、1993年クリントン大統領立会のもとオスロ合意(『パレスチナ暫定自治協定』)が出来ます。
 
主に以下の二点が合意内容とされています。
1、イスラエルを国家として、PLOをパレティチナの自治政府として相互に承認する。
1、イスラエルが入植した地域から暫定的に撤退し5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。

 やっとこの問題に解決が見えるかと、世界も思ったのです。PLOアラファト議長とイスラエルのラビン首相はこの年、ノーベル平和賞を受賞しました。二人が並ぶその姿を見て私も喜びました。

 しかし、双方の過激派からはこの合意は反発を受けます。1995年、イスラエルのラビン首相の和平政策に対してユダヤ人学生たちが反発、ラビン首相は暗殺されます。PLO内ではハマスが反対し、PLOと袖を分けます。そしてイスラエルにテロ攻撃を仕掛けます。
2001年、イスラエルにシャロン首相就任。 彼は対パレスティナ強硬策を取り、ガザ地区とヨルダン川西岸のパレスチナ人居住区に「壁」を建設。まるで冷戦期のドイツを思わせるような隔離政策を取るのです。ガザ地区とヨルダン川西岸は完全に交通が分断されたため、PLOはヨルダン川西岸→主流派ファタハ、ガザ地区→過激派ハマスと別れます。

この合意は、2006年7月の、イスラエルによるガザ地区・レバノンへの侵攻により、事実上崩壊したとアラブ側では見做されています。

©CRUNCH MAGAZINE