7 イスラム諸国(その2)イラク・クエート・ヨルダン・シリア

写真はシリアの現状

【メソポタミア】
 チグリス、ユーフラテス側に挟まれた古代文明発祥の地と習いました。もともと、土地が非常に肥沃でしたが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起きたのです。幾多の盛衰がありましたが、オスマン帝国崩壊の第一次大戦後についてこの地域の国について語ります。この地域を国際連盟から委任統治されたのがイギリスです。オスマンは帝国です。その範囲に色んな民族が住んでいました。帝国が衰退し崩壊していく過程で既に民族の自立を求める動きはありました。

【イラク】人口3300万
 あの映画アラビアのロレンスで登場するアラブ独立(アラブの反乱)の指導者がハーシム家のファイサル・イブン=フサインです。イギリスに協力することでアラブの国家を作ることをイギリスは約束していました(フセイン=マクマホン協定)。第一次大戦後を話し合うパリ講和会議でファイサルはアラブ地域全体をハシミテ王国とすることを要求しましたが、サイクス・ピコ協定*とのからみから受け容れられることはありませんでした。

*分割案は
• シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
• シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
• 黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。⇒ロシア革命でそれどころでなくなる。

 1920年3月にダマスカスのアラブ民族会議により、シリア・アラブ王国(大シリア、現在のレバノンとシリアにあたる地域)の国王に選出され、兄のアブドゥッラー1世もイラク王に選出されます。これをフランスが黙っているはずがありません。フランス・シリア戦争により、7月にシリア・アラブ王国は占領され、ファイサルはダマスカスを追放されることになります。その後ファイサルは、イギリスに亡命し、イギリスの保護下に置かれます。アラブの反乱からこのシリア追放までの経験を通して、ファイサルは自分の限界と立場の弱さを思い知り、現実主義的な政治家に変わります。

 1921年8月にメソポタミアをイギリスが委任統治することになります。ファイサルに留保をつけて帰し、イラク王とします(その一番はバルフォア宣言・・イギリスのイスラエルの建国の後押しを認めることでした)。
 クウェートは大油田が見つかったために、新たに形作られたイラク王国から切り離されたままに置かれました。

 サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスによって引かれた恣意的な国境線により、中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多いクルド人はイラクと、トルコ(一部シリア)に別れ分断される形で残されました。独自の国家を持たない世界最大の民族集団と言われ(人口は2,500万~3,000万人)イラクや、トルコで分離独立の動きがあります。(フセインのクルド人虐殺は記憶に新しいところであります)。

 1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家(兄弟である)が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成するも同年、自由将校団とイラク共産党によるクーデターが起こり、連邦は崩壊し共和制となります。1961年クエートがイギリスより独立すると、時のカーシム政権はクエート併合に言及します。さらに1963年2月にバアース党将校団のクーデターが起り、第2共和制。その後、いくつかの政変を経て、サッダーム・フセイン政権 (1979年-2003年)ができるのです。

【クエート】人口320万
イギリスの植民地時代
 1930年代初頭、天然真珠の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、深刻な経済危機下にありました。それは当時、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖技術開発に成功、日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透し、クウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要を駆逐していったことが主な原因でした。それまでにイラク王国、バーレーンにおいて石油が発見されていたので、クウェート政府は、新しい収入源を探すため石油利権をアメリカとイギリスの共同資本の『クウェート石油』に付与します。クウェート石油は1938年2月現在のブルガン油田(世界2位の巨大油田)を掘り当てます。1946年より生産を開始し、以降、石油産業が主要な産業となります。豊富な石油によって世界でも有数の金持ち国に数えられ、国民の生活水準は高いのです。

 イギリスからの独立は1961年のことです。経緯から考えて、イラクにとっては羨ましい限りです。クエートはイラクの一部であるという考えはイラク側には常に存在していたのです(フセインの侵攻)。

 憲法によって立憲君主制を取っていますが、首相以下、内閣の要職はサバーハ家によって占められており、実態は一族独裁による事実上の絶対君主制であります。サバーハ家には、ジャービル家とサーリム家という2つの分家が存在し、交互に首長を輩出する慣習が長く続いています。

湾岸戦争後はアメリカ軍が駐留し、2003年のイラク戦争時には出撃拠点となりました。

【ヨルダン】人口700万
ハーシム家出身の国王が世襲統治する王国であります。
国民の半数余りは、中東戦争によってイスラエルに占有されたパレスティナから難民として流入した人々(パレスチナ難民)とその子孫です。

ジャスミン革命(アラブの春)の影響で、首相を国王が任命するのではなく国民に直接選ばれた議会が選出する議院内閣制への移行と選挙法改正を要求するため、主にムスリム同胞団やアラブ民族主義政党、左派政党らが結集してアンマンなどで抗議デモが実施されました。また、国王の長年の支持基盤だったベドウィンの部族長らもアブドゥッラー2世国王に対して、ラーニア王妃とその一族の浪費癖を批判する声明を出しています。ただ、いずれも王制打倒を求める反体制運動には到っていません。さしたる産業もなく、石油も出ないヨルダンはアメリカや外国の援助に頼っているのが現状です。

【シリア】人口2100万

年代を列記します。
独立・シリア王国
1920年3月8日 - シリア・アラブ王国(英語版)が独立し、ファイサル1世が初代国王として即位。
1920年7月24日 - フランス・シリア戦争(英語版)でフランスが占領。
1920年8月10日 - セーヴル条約によりフランスの委任統治領(1920年-1946年)となる。
1946年 - シリア共和国としてフランスより独立。
1958年 - エジプトと連合、「アラブ連合共和国」成立(首都:カイロ)
1961年 - 連合を解消。
1963年 - 1963年クーデターによりバア-ス党が政権を獲得。
1967年 - 第3次中東戦争、ゴラン高原を失う。
1970年 ヨルダン内戦

PLO(パレスチナ解放機構)は第三次中東戦争以降、パレスティナ難民とともに活動拠点をヨルダンに移していました。対イスラエル抵抗組織としてヨルダンはPLOを支援していましたが、イスラエルに対して強硬手段をとることを諦め、現実路線に移ろうとします。PLO内から王政批判が起こります。そんな時にPLOの下部組織の過激派PFLPによる連続ハイジャック事件が起きます。激昂した国王フセインはPLO排除、パレスティナ難民弾圧(4000人が犠牲になったと云われます)に舵をきります。これにシリアはPLO支援に乗り出します。このままではヨルダン・シリアの戦争に発展します。その隙にイスラエルは乗じるでしょう。アメリカ、エジプトの調停によって合意ができます。PLOは拠点をレバノンに移します。パレスティナ問題の中に同じアラブ同志の戦いが生じたことによって、パレスティナ問題の深刻化、混迷化への端緒となった事件です。9月に起きたので「黒い9月事件」と言われます。

*PLFPの一部メンバーはこの事件を恨み、「黒い9月」と名乗り、1972年のミュンヘンオリンピックにおいて、イスラエル選手団を襲撃、多数を殺害するオリンピック史上最大の悲劇事件を起こします。

アサド政権
1971年 – 先代アサド、大統領に選出
1973年 - 第四次中東戦争
1976年 - レバノン内戦に介入。このレバノン内戦は重要なので別項目で解説。
1982年 ハマー虐殺
先代アサド大統領の命令によりシリア軍がハマーの街で、蜂起したムスリム同胞団(スンニ派イスラム主義者)の鎮圧を目的とした焦土作戦をいいます。1976年に始まる組織的運動は、1982年この虐殺によりおわります。単一の事件としては現代の中東においてアラブ系政府が自国民に対して起こした最悪の行動の一つに数えられます。犠牲者(1万人とも4万にとも言われている)の圧倒的大多数は一般市民でした。
2000年 – 先代アサド大統領死去。息子のアサドが大統領就任。
2005年 - レバノンより、シリア軍撤退
2007年 – 現アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。
2008年 - 隣国レバノンと外交関係復活。
2011年 シリア騒乱(抵抗運動)⇒内戦⇒IS⇒大量の犠牲者と難民と今も悲惨な状態にあるのは皆さんもご存知のところです。

 息子アサドは、最初は民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はこれを「ダマスカスの春」と呼びました。保守層の反発等で思うように進められず、2003年のイラク戦争で、隣国の同じバアース党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1ヶ月足らずで武力で崩壊させられたことを受けて、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、デモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩みます。イラク戦争がコント頃でも影響しているのです。近年、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなっています。

 2011年4月15日「アラブの春」の影響で、大統領の退陣を要求する大規模な民主化要求運動が発生、治安当局と参加者との衝突で騒乱状態になり、内戦にまで発展しています。政府側をロシア、イラン、反政府側をアメリカ、西側が支援という体制であったのですが、反政府組織がイスラム国にとって変わられることで、アメリカは今、イスラム国を空爆しています。何ともややこしいことです。

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