2 イスラムの簡単な歴史

  二つの視点を持てば理解しやすいと思います。一つは世界史におけるイスラム圏=現中東地域だけじゃなく、北アフリカから中央アジアに至る広域ネットワークとしてとらえる。 もう一つはペルシャ人(イスラム以前)→アラブ人→トルコ人のように、細かい王朝名よりも活躍した民族の推移に着目すれば、情報の理解と整理がしやすいと思います。

一応時代推移を次のように区分しましょう。

1ムハンマドの時代⇒2正統カリフの時代⇒3ウマイヤ朝・アッバース朝⇒4セルジューク朝の時代⇒5ティムーム朝の時代⇒6オスマン帝国の時代
ムハンマド以前は東ローマ帝国とササン朝ペルシャでした。ペルシャ人(イラン人)が活躍した時代と考えていいでしょう。

【ムハンマドの時代・正統カリフ時代】

 6世紀末、陸路のシルクロードは衰退し、海のシルクロードをとります。メッカはこれによって栄えます。イスラム教の創始者ムハンマドはメッカに生まれ、幼くして両親を亡くし、隊商人である叔父に育てられます。叔父の仕事を手伝い、25歳となったムハンマドは、裕福な未亡人ハティージャが出資した隊商を任され、シリアに向かいます。この時の縁でハティージャとムハンマドは結婚することになります。ムハンマドは、その後も商人としてたびたびシリアに訪れて、この時にユダヤ教やキリスト教(一神教)を知ることになります。

 そうして、ムハンマドは、当時アラブ人たちが信仰していた多神教や偶像崇拝が堕落の原因であると考えるようになりました。そしてムハンマド40歳の頃、610年のことです。神の啓示を受けるのです。このムハンマドが受けた神の言葉が後に聖典にまとめられ「コーラン」とされます。
 このイスラム教の教えは、当時アラブの人たちが信仰していた神々の中で、最高神とされるアッラーを唯一の神とし、アッラーの前では人は皆平等と非常にわかりやすいものでした。

 イスラムの教えについて後で述べることにしましょう。今は歴史です。
平等を説くイスラムの教えは、当然メッカの支配層や富裕層から睨まれます。ムハンマドは622年にメッカからメディアへと布教の拠点を移すことになります。メディアで勢力を持ったムハンマドを恐れ、メッカ軍が攻めてきます。この戦いにメディナ軍は勝利し、メッカを制圧しムハンマドはメッカをイスラム教の聖地と定めます。その後、敵対的な態度をとっていた部族に対しても大軍を送り平定すると、アラビア半島に住んでいる大半の部族はイスラム教へと改宗することになりました。こうして、ムハンマドはアラビア半島を宗教的、政治的にも統一することになり、メッカを首都とする宗教国家が築き上げられることになるのです(半島の統一632年)。

 ムハンマドは単に宗教者に留まらず、商人であったこと、また、武力で制圧し、為政者となったことなどが、キリストや仏陀と違うところです。このことはイスラム教を理解するときに大事なことだと私は思うのです。

 ムハンマドが亡くなった後、その後継者を選挙で決めることとなります。この後継者のことを『カリフ』と呼びます。この正統カリフ時代とは632年から30年ほどの間です。正統カリフの時代にはアラブ人居住地域以外にも戦争(ジハード・聖戦)で勢力を拡大していきます。ササン朝ペルシャを事実上滅ぼし、ビザンツ帝国からはシリア・パレスチナを奪い、エジプトも征服。西アジア一帯を制したのです。その過程でカリフは征服地の異教徒に改宗を迫らず、税さえ払えば平等としました。アラブ人を中心にした帝国が出来上がったのです。

【ウマイヤ朝・アッバース朝】
 正統カリフは4代で終わり、ウマイヤ朝ができます。この王朝時代で憶えておくことはカリフが世襲制になったことと、イスラムが分裂したことです。出来た王朝を支持するグループを「スンナ派(多数派)」、支持しない方を「シーア派(少数派)」といい、今の宗派対立の原型が出来たことです。シーア派はイランを中心にし、イスラム教徒の1割ほどだといわれています。スペインまで勢力を伸ばしたのはこの王朝時代です。

 ウマイヤ朝の次がアッバース朝です。税を払えば平等と言っても、人頭税・土地税をめぐって、アラブ人と改宗した非アラブ人との間に不平等が生じます。ウマイヤ朝を滅ぼしてアッバース朝を樹立させたのがアブー・アルアッバースで、ムハンマドの叔父の家系にあたる人物です。初代カリフとなります。2代目カリフの時代には首都をバグダードに移し、当時を代表する国際都市として繁栄しました。
 またイスラム法を整備し、ウマイヤ朝が滅びる原因となった非アラブ人との差別を解消します。アラブ人でも土地税を払う必要があることとし、非アラブ人でもイスラム教徒ならば人頭税を払う必要はなくなります。つまり、イスラム教徒ならば人種に関係なく人頭税を払う必要はなく土地税のみとなった訳です。非イスラム教徒は人頭税と土地税を払わされますが、彼らは改宗しなくてすむので納得済みということです。

 また、アッバース朝成立に貢献したイラン人も官僚や軍隊の中に増えていきますので、それまでのアラブ人中心国家から真の意味でのイスラム帝国へと変わっていくことになったわけです。拡大しすぎた帝国は、主にイラン人やトルコ人がアッバース朝からどんどん自立して、やがて衰退していくのです。1258年、モンゴル人の攻撃によって王朝は滅亡します。

 そして11世紀半ばにイスラム世界の中心に座ることになるのがトルコ民族のセルジューク朝でした。創始者のトゥグリル=ベクはカリフ(江戸時代の天皇みたいなものでしょうか)から『スルタン』という称号を受けます(大将軍と言ったところでしょう)。

次に15世紀に勢力を伸ばしてきたのがティムール朝(首都はサマルカンド)です。モンゴル帝国の系列の国と理解してください。

大事なのは【オスマン帝国】
 次のオスマン帝国(1299年 - 1922年)はオスマン・トルコというくらいですからトルコ人の国家です。この帝国は20世紀、第一次世界大戦が終わるまで実に600年も続きます。オスマン帝国のルーツは、13世紀末に小アジアの西北部を根拠としていた軍隊の集団です。この集団のリーダーがオスマン・ベイ。オスマン帝国の建国者です。
 1453年、東ローマの首都コンスタンティノープルを攻略。この地をイスタンブールと改名しオスマン帝国の首都とします。帝国の最盛期は16世紀、スレィマン1世の時代です。その領土は中央ヨーロッパ、北アフリカにまでの広大な領土を有しました。

 オスマン帝国の衰退は、17世紀後半の第二次ウィーン包囲の失敗から始まります。 オーストリアの都ウィーンを包囲し殲滅しようとしたものの、撃退され、不凍港を得るため黒海を目指して南下してきたロシアの攻撃もついでに食らい、ハンガリーをオーストリアに奪われ、アゾフ海(黒海の一部)もロシアに奪われてしまいます。そして徐々に衰退していくのです。
 産業革命を経て、近代国民国家となったヨーロッパ列強に解体、分割されるのです。イスラムはそれまでヨーロッパに対して軍事的にも、文化的にも優位性を持っていました。それが逆転したのです。

©CRUNCH MAGAZINE