その時、少し離れたところから黄色い歓声が上がり、その方向へわっと人が押し寄せていった。あっという間に人だかりは警備員によってテープで区切られ、長蛇の列が作られていく。
「これは何?」
「タヒネ様が出て来たんですよ。これから健診です」
「健診って何するの?」
「……見に行きましょう」
 私達は列の先頭を目指した。
 何百人もの行列の先頭にやっと辿りつくと、すでに私達と同じ見物人が群がっていた。人の頭の間から垣間見えた光景に私は息を呑んだ。
 輝く肢体を見せつけるように、五体満足の身体で仁王立ちで構える看護婦姿のタヒネの前に、ズボンを下ろした男の人がぞろぞろと並んでいる。ズボンというか、パンツも。……下半身丸出しなのだ。こちらからは尻しか見えないけれど。前は……。酸っぱい唾が沢山出る。
 警備員に促されて先頭の男性が進み出ると
「タヒネ先輩、一本お願いします!」
と叫びがら頭を下げ、まるで降伏する兵士のように腕を頭の後ろに組む。タヒネが「はいよ!」と寿司職人のように腕を捲り、男性の下半身の中心へ手を伸ばすと――ここからはよく見えないけれど、触れるというより手をかざしたくらいで――もう男性は「うっ」と呻いて前にのめる。すかさず、ステージにいたのと同じマスクで顔を覆った白衣の人が二人がかりで男性を支える。三人目が正面からバケツで男性の身体を受け止める。
「ナイッシュー!」
 見物人から揃った声が上がった。
「ハイ、あんがとねーまた来てよろしくー」
 済んだ男性はネムルからティッシュと記念品らしきものを渡され、
「あ、ありがとうございました!」
 タヒネへ頭を下げながらズボンをずり上げる。タヒネは笑顔で親指を立てる。
 この一連の流れがひとりあたり数秒で行われているのだ。
 あまりにもぶっ飛んだ出来事にぶち当たって私の頭はオーバーヒートしてシューシューと蒸気を漏らしそうだった。とりあえずおびただしい量の男の尻の羅列という目の前の光景を頭が処理出来ぬまま、ひたすら尻が流れていく。
「マ、マチコ……」
 男の尻の群よりまだマシな造形であろうマチコの顔を見やると、誰にも負けない張りのある声で
「ナイッシュー!!」
と叫びながら
「あーいいなー、私も並びたかったけど、お金無くてCD買えないんですよねー」
とのたまった。
「えっ並ぶって」
「女の子も並べますよ、ナイッシュー! ほら、あそこにも、そこにも。ナイッシュー!!」
 マチコの指した方を見ると、確かに男の尻に混じって服を着たままの女の人もちらほら見かける。順番が来ると握手やハグをタヒネにお願いしている。
「……裸の男の下半身に挟まれてまで好きなアイドルと握手したいとは思わない……」
「タヒネ様はアイドルなんかじゃありません、アイドルを超越した存在なんです。ほら、ミアハさんも一緒に、ナイッシュー!!」
「……ナイッシュー……」
「一緒に叫ぶと楽しいでしょ!」
「ハア……」
 汗と脂でてらてらに光るマチコの笑顔を見ると、ヘナヘナと脱力してしまった。このまま全身が溶けて車椅子と同化してしまいたい。何なんだ、もう。私だけ騙されてるのか。しなしなの果物みたいな男の尻の皮膚も、「皆様から頂いた精子は国立精子バンクにて大切に取り扱わせて頂きます」と書かれた生真面目な看板も、そしてまるで高校の部活動のように爽やかな「ナイッシュー!!」という歓声も、全てが私から力を奪っていく。順番を待つ人も、見物人も、みんなキラキラした目をタヒネへ向けている。列を乱す人はいない。タヒネへの熱い思いがほとばしってつい長く喋り過ぎ、白衣マスクの人間に引き剥がされるようにして退場する人はいるけれど。そうすると見物人は「おっかわりー!」と声を上げる。大体そう言う人はまだ券を持っているらしく再び最後尾に並ぶことになる。つまりCDを何枚も買うくらいの、余程のファンだということだ。
 ハア、恥ずかしいとか思っている私の方がバカみたいだ。精子を寄付した男が貰えるのはティッシュかと思えばコンドームらしく、「性感染症を防ぎましょう。不特定多数とのコンドーム無しの性交はあなたの性感染症リスクを高めます」と書いてある。何が言いたいんだ。
 下半身を露出した男の中に、ひとり、服どころかきちんとしたフレッシュマン風のスーツを身に着けた女性がおり、目をひいた。順番が来て、
「タヒネさん、これを返します」
 握った手を開くとそこにはメス型カッター――物販で売られていたものだ――があった。
「いつも、これで、辛い時は乗り切ってた……。でももう大丈夫になったから、もうこれを使わなくてもやっていけるようになったから……」
 白衣マスクが「時間だ」と言って彼女を引き剥がそうと動いたがタヒネがそれを手で制した。
「でも……淋しい……ずっと一緒だったから……離れるのが辛い……辛い……、だから今日最後のお別れに、切りたいんです、見てて下さい!」
 そう叫んでカッターを握ると彼女は咄嗟に刃先をタヒネへ突き出した。群衆から叫び声があがる。すぐさま白衣マスクが彼女を羽交い絞めにする。
「お腹を刺されたんじゃないかしら! どうしよう?!」
 マチコがわめくも、人だかりのせいでこちらからはタヒネの様子が見えない。
 取り押さえられた女性は暴れる風でもなく、むしろ腰が抜けたように脱力して白衣マスクに抱き止められ、目を見開き、口をぱくぱくさせて「あの……、あの……」と言っている。
「あーあ、やっちゃったねーオキニの腕だったのにー」
 間も無く聞こえて来たのはのんきなネムルの声だった。
「黙れ。替わり持ってきて」
 続いてぶっきらぼうなタヒネの声も。
「良かった!」
 マチコが胸の前で組み合わせた両手にひしっと力を込める。
 やっと見えたタヒネは、的に当たった弓のようにメス型カッターが垂直にぶっ刺さった腕を乱暴にもいで、滴る血もそのままにバケツに突っ込んでいた。腕でかばったから身体は無傷みたいだ。
「あ……あ……」
 がたがた震えながら白衣マスクに連行される女性の背中にタヒネは言った。
「強く生きろよ。……私のことを忘れるくらいに」
 女性はハッとした顔で振り返るとしばらくタヒネを見つめ、そして「うわああ」と泣き崩れてしまった。女性が去り、しばし静まり返った後、自然と見物人から拍手が起こったが、
「やめろって」
 タヒネがかぶりを振ると拍手はすぐさま止んだ。
「悪いねー、利き手じゃないけど」
 タヒネはそう詫びながら次の客を呼び寄せ、何事も無かった様子で「健診」を再開した。
「あの子は幸せですね……」
 マチコがため息とともに呟いた。
「タヒネ様を傷つけたのは許せないけど。本当は自分を切るつもりだったんでしょうね。それがタヒネ様を目の前にすると愛憎極まって……。でもタヒネ様は全部分かって受け止めてくれる」
 マチコは勝手に頬をだらだら濡らして泣いていた。なんだか水漏れした水道を思わせる、だらしの無い泣き方だ。
「ぶぴー!!」
 マチコがラッパみたいな高らかな音を鳴らして鼻をかむと、健診に専念していたタヒネが何事かとこちらを向いた。しかし音のしたマチコの方ではなく、隣の私を見つけて、ニッと笑った。
 ……勘違いかもしれない。でも誰も私を見つけないこの場所で初めて見つけられたように感じて心臓が飛び跳ねるようだった。見つめられた時間だけ寿命が縮んだと思った。……それでももう一度、見つめられたいと思ってしまった。
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