ボディミストのボトルを一押しすると、途端に私は思い出す。
 車でないと行けないおもちゃ屋さんに、どうしても行きたいと駄々をこねていた頃。
 散々泣き喚いたことは覚えているのに、一体そこまでして何を欲しがったのか。今となっては分からない。

 大人になった私が纏うのは、ずっと昔に何度も嗅いでいたはずの香り。
 オレンジのさっぱりとした爽やかさと、黄金糖を溶かしたような気だるい甘さ。こうばしい香り。
 だけど、一体どこでその香りを? 幼い私はすぐそばにいるのに、誰も何も思い出せない。

 小さな白い花がいくつも描かれたラベル。大きく息を吸い、全身で感じてみる。
 頭の中に蘇るのは、古ぼけたアルバムの中で眠る蜂蜜色の記憶。
 ふわっと薫るその懐かしい匂いが、幼い私も好きだったはず。どうして今まで忘れていられたのだろう?
 出来ればその香りの中に、ずっといたかったのに。


                  *****

 一人暮らしの私の家にあるのは、決して広いとは言えないベッド。
 寝転んだ私の視界の端に入るのは、大きな影と豆電球の光だけ。橙色の灯に照らされた記憶。

「小さい頃、怖かったものってある?」
「なんだよ、いきなり」

 彼の太くてたくましい腕に抱かれながら、私は問いかける。

「私ね、ビデオがピーって鳴る音が怖かった」
「ビデオの音? どういう音だろう。分からないなあ」
「やっぱり、そっか」

 首を傾げている彼を少しだけ笑ってから、私は目を瞑る。分からないでいられる彼が内心とても羨ましかった。

「話してみなよ」
「でも、おかしいって、笑うでしょう」

 その音の恐怖を、分かってくれる人。心のどこかで、私はいつもずっと探していた。
 けれど、分からないなら話したくなかった。いつだって私は諦めている。

「笑わないよ。お前のことだろ」

 目と目が合って、そっと頭を撫でられる。
 普段なら茶化すくせに、この日の彼は久しぶりに会ったせいか態度も言葉の響きも、いつもより少し甘かった。私の長い髪に埋める彼の顔の感触がくすぐったい。

「今日のお前、いい匂い」

 私は目を瞑り、鼻の先の神経を研ぎ澄ます。彼が来る少し前、お風呂上がりの肌に付けた香り。
 香水だと周りに主張しすぎるところがあるから、ボディミストのように辺りに漂うぐらいの香りが私は好みだ。
 彼のまっすぐな黒い瞳に見つめられ、私はわずかに笑みを浮かべる。
 私を守ってくれるのは、この香りだけが全てではないはず──腕できつく抱かれながら、狭くてぬるい安全基地の中に私はいるのだと自分を言い聞かせる。

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