過去を想う人

 目を閉じるといつも想い出す風景がある。
 季節は夏。さわさわと元気よくのびた青草が揺れ、真上で太陽が熱すぎる光を容赦なく浴びせてくる。
 そこに、小川の流れる音が潤いを、柔らかなひんやりとした風が冷たさを与えてくれる。
 とても気持ちがいい。心臓はとくん、とくん、とくん、と穏やかに同じビートで鳴っている。
 このまま消えてしまえたら、と思う。これ以上の幸せは思いつかない。

 ピピッピピッピピピピ!!カチッ

 一八時にセットしていたタイマーが耳元でうるさく鳴り響き、私の幸せな時間をあっさりと壊してくれた。少しイラつきながらタイマーを止める。
 心を落ち着かせたいときにこうしてふるさとのお気に入りだった場所を想い浮かべるようになってから二年が経った。
 東京での暮らしは二年経った今でも慣れていない。
 街の中心部には高層ビルが立ち並び、大通りを外れるとほとんど隙間なく建てられた住宅街。
 きれいに整備された公園はあるが、住宅地にぽつりと置かれた公園は息苦しい空間でしかない。
 わたしは都会が嫌いなのだ。
 都会にはなんでも詰め込まれている。いろんな人の夢がここで叶うように。
 人もモノもぎゅうぎゅうで、ごちゃごちゃ。いや、むしろぐちゃぐちゃだ。受け入れることがいつまで経ってもできないわたしの心にはそんなふうに映っている。
 東京は四七都道府県のなかで三番目に面積が小さい。そして「一度住んだら離れられない」人が多い。まるで箱庭のようだ。みんな都会の暮らしの華やかさと便利さに酔ってしまうからだ。それでいて、どこか物足りないという顔をしている。
 わたしは都会で暮らす人も嫌いだ。わたしも含めて。

 ああ、こんなことを考えていたらまた気分が悪くなる。
 明かりをつけていない部屋の中は薄暗い。住宅地では沈む太陽の光もない。
 「おなか、空いたな」
 どこかに出かけようか?料理を作るような気分じゃない。
 でも街に行くのは億劫で、着替えるのも面倒だ。こんなわたしはやはりダメな人間だと思う。
 数分悩んだが、どちらもやめることにした。
「チロルに、会いに行こうかな……」
 チロルは近所の公園を縄張りにしている野良猫だ。名前はわたしが勝手に付けた。
 全身ふっさふさの真っ白で、きれいなブルーの瞳をしている。見た目はお金持ちの家にいそうな高貴な猫だ。
 警戒されて最初は触れられなかったけれど、ニボシで誘ってみるとすぐに懐いてくれた(その前はマグロを与えてみたが好みではなかったらしく失敗した。意外と庶民的な猫らしい)。
 わたしの心を否定も肯定もせず隣にいてくれる唯一の存在だ。
 チロルにとっては「ニボシをくれる人間」なのだろうけど。
 
 ニボシをポリ袋に詰め込んで、ジャージ姿にクロックスを履いて公園へと向かった。
 夕方の公園に人気はなく、静かだ。薄暗さが寂しい空間を演出している。
 チロルは人間の子供が嫌いだ。子供の手が届かなくて公園の入り口がよく見えるベンチ横の自動販売機の上にいつもいる。
「やっほう、チロル」
 自動販売機の上で寝そべっていたチロルにニボシ入りの袋を見せる。チロルはあくびを一つしていつものようにベンチに降りてきた。
 わたしはその隣に腰を下ろし、ニボシを左手に乗せて差し出す。
 チロルは舌でニボシをすくってはムシャムシャとよく噛み砕いて飲み込んでいく。
 その間に右手でふわっふわで、やわらかい毛並みの背中や頭を撫でることができる。とにかくこの触り心地が最高だ。自然と口元がゆるんでしまう。
 お腹が空いていたのか、あっという間にニボシをすべて食べてしまった。
 満足したチロルは丸くなって寝てしまう。
 なんだろう。とても幸せそうでうらやましくなる。
 もしもわたしが猫なら、もっと楽に生きられただろうか?
「わたしは人間に向いていないかもね」
 たくさんのモノがお金を払えば手に入る。そのほとんどがなくてもいいもの。その「なくてもいいもの」で世界は回っている。むしろ「絶対に必要なもの」なんてないように思う。わたしという一人の人間だってそうだ。
 猫はどんなことを思って生きているのだろう。
「そんなこと考える訳、ないか」

ーーぽつ、ぽつ

「ん? 雨?」
 鼻先と頬に冷たい雫が当たって弾けた。
 空を見上げると黒い雲が浸食している。公園があっという間に暗くなり、雨が降り出す。
「あー……」
 傘は持っていない。本降りになる前に帰った方がよさそうだ。そう思ったときーー。
「傘、いりますか?」
「え?」
 突然の声に驚いて顔を正面に戻すと傘をさした女の子がすぐ目の前に立っていた。
 話しかけられるまで全く気配を感じなかった。
「えっと……あ……」
 わたしが動揺してしどろもどろになっていると、
「あ、傘いらないですよね。 雨に濡れちゃえば泣いても分からないですもん」
「ん?泣くって、だれが……わたし?」
 どうしたものか、女の子は勝手に話を運んでいく。わたしは全く状況が飲み込めない。
 分からないものを人は嫌う。わたしのなかで警鐘のサイレンが鳴りだす。
 身構えながら改めて女の子を見る。たぶん高校生だろう。髪は男の子のように短いが、小顔でかわいらしい。
 真っ白のワンピースになぜか野球帽をかぶっている。まだ四月のこの時期には合わない格好だ。
 そして暗闇にも関わらず女の子の姿はぼんやりと光っているように見える。
 
 どうする?これはスルーすべきか?……うん、ここから早く離れよう!

 これ以上絡まれるのは危ないと判断し、早々に立ち去ることにした。
 それに雨に濡れて寒い。このままでは風邪を引いてしまう。
 意を決したわたしはダッシュで女の子のとなりをすり抜けーーられない!?
 女の子はわたしの思惑を察したのかすばやく前に立ちはだかる。
 まさかのことで動揺を隠せない。

「逃げちゃダメですよ。」
「いやいや、このままだと風邪を引いてしまうのだけど。 け、警察呼ぶよ?」
「えー、ひどいです。 この場所では泣けませんか? あそこでないとイヤですか?」

 やばい。どんどん頭に血が上っていく。怒りが沸点に達するのを必死で堪える。落ち着こう。大人のわたしが子供に振り回されるなんてみっともない。
 強く握った拳を小さくと振るわせながら言う。

「いやね、場所の問題ではないの。ちっとも泣きたい気分じゃないの。わたしは家に帰りたいの。だから邪魔しないでくれるかな?」
「もう、仕方ないですね。最後に泣いたのはいつか覚えていますか?」

 女の子は左手を腰にあて、右頬を膨らませて聞いてくる。
 なんてことだろう。全く話しを聞いてくれない……。
 もう女の子の話しにつき合う方が早く帰られる気がしてきた。
 わたしは年下の女の子に負けた。

「……い、いつ泣いたとか覚えてない」
「やっぱり!そうだろうと思いました。あなたは二年間も泣いてないんですよ!」
「は……。なんで分かるのかな?まさかストーカー!?」

 わたしと女の子は初対面だ。わたしが二年間泣いていないなんて断言できるはずがない。
 確かに上京してから泣いた覚えはない。いや、一度だけ大泣きをした。でもそれからは涙が枯れてしまったように「泣ける」と言われた映画や本を読んでも目から溢れるものはなかった。
 
「ストーカーなんてひどいですね〜。あなたの目を見れば分かります。泣くことを忘れている目です」
「忘れている?」
「このままじゃ、一生泣けなくなりますよ?」

 一呼吸を置いて、女の子は急に真剣な眼差しを向けてきた。黒く澱みのない眼に怪しい光が宿っている。先ほどまでのおどけた雰囲気が一変してピリピリとした鋭い空気に身体が硬直してしまう。

「……泣けなくなる?」
「だから、涙を取り戻しましょう」
「どう、やって?」
「想い出すのです。 あなたが見失った心を」
「想い出す……」
「あなたはずっと想い出すことをやめているんです」
「でも、わたしはずっとあの場所を想っていて……」
「あなたの心は過去に捕われています。そう、この場所に」

 そう言うと、女の子は傘を持ちながら舞のような踊りを始めた。
 傘をくるくる回しながら全身を大きく使っている。
 開いた傘が咲き誇る花のように綺麗で見とれてしまう。手の動きに合わせて女の子の周りに花が咲く。
 
「この場所に見覚えはありますか?」
「え?」

 言われていつの間にか公園がなくなっていることに気づいた。自分と女の子がいるのは、あの場所だった。
 何度も目を閉じて想い出していた場所。間違いない!
 雨は降っていなかった。

「どうして……」
「なぜ、ここを想っていたのですか?」
「なぜ? なぜって……分からない」
「ウソ。ちゃんと想いだしてください」

 思考がうまく働かない。いや、脳が拒否している。
 突然変わった景色にどう対応すればいいのかも分からない。
 わたしが動けずにいると、

「では、あたしの質問に答えてください。 あなたはなぜ上京したのですか?」

 誘導するように女の子は質問を始めた。女の子はわたしのすべてを知っている!なぜかそう確信できる。
 わたしは困惑しながら半分無意識に答える。

「……家が貧乏で、両親の自営業だけじゃ生活が厳しかった。 だから、わたしは短大を卒業して上京したの。 ちょっとでも良い会社に就職して、実家にお金を送るために」
「あなたは一人で頑張って働いた。 両親も嬉しかったんじゃないですか?」
「そう。心配して何度も電話をしてきたけど、ありがとうって、わたしのおかげでちゃんと生活ができてるって……そう言ってくれるのがわたしも嬉しかった」
「あなたは頑張ことができる理由があった。なのに、なぜ今のあなたは後ろを向いているのですか?」
「それは……」

 なるたけ考えないようにしていたことを、女の子は表に引っぱり出そうとしてくる。
 どうしよう!答えは出ている。でも口にしてはいけないと、ぎゅっと唇を固く結んでしまう。
 もし言ってしまえば自分の中に押さえていたものが溢れ、壊れてしまうように思えて。
 わたしは懇願の眼差しで女の子を見つめ、首を横に振る。
 きっと今のわたしはとんでもなく情けない顔をしているだろう。でもそんなことを気にする余裕はもうない。

「ダメです。ちゃんと向き合ってください」 

 ぴしゃりと女の子はわたしの願いを断ち切った。
 唇が震える。わたしも分かっている。向き合うことは避けられないと。

「……両親が……事故にあって」
「それで?」

 心臓がドクドクと激しく動いているのが分かる。息が上がっているようにぜえぜえと呼吸をする。
 苦しい。でも、でも逃げられない!
 わたしは目を閉じ、いっきに言い放った。

「死んでしまったの!」

 そうだ。わたしには都会にいる理由も帰る場所もない。
 叫んだ瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。
 立ちくらみに襲われ、平衡感覚がなくなる。
 わたしはその場にへたりこんでしまった。
 頭上で女の子の声が聞こえるけれど顔を上げることができない。

「ようやく言えましたね。おめでとうございます。大丈夫、あなたはまた泣けます。」
 何が大丈夫なのだろうか?今のわたしは絶望しか感じない。
 わたしは生きながらに死んでいるも同然だ。
「あなたはずっと帰らなかった。ここに来たいという気持ちはありながら、両親を無くした絶望を思い出さないために。でも帰ってきたのです。あなたと両親の思い出の場所に。だから、ちゃんと想い出してください。ここにいたときの想いを」

 ここにいたときの想い? ここはよく両親と過ごした場所。わたしの幸せの記憶はここがほとんどだ。
 お父さんはここで何でも教えてくれた。一緒に捕まえた虫や鳥、魚の名前はもちろん、その生態のことも詳しかった。生物だけではない。分野を問わず、聞いて答えが返ってこなかったことはない。わたしの知識はお父さんからもらったものばかりだ。
 お母さんは優しさと厳しさをもっていた。わたしを撫でるとき、抱きしめるときの温かさと優しさが好きだった。愛されているという安心感に勝るものなく、余裕がない生活でも不満に思ったことはない。また、お母さんは甘やかすことはしなかった。わたしが約束を破ればまさに鬼のような形相で怒り、近所も構わずに怒鳴るのは当たり前。わたしが他人とちゃんと共存できるように、人として生きるための術を教えてくれてーー
 
ーー!

 わたしははっとした。そうだ、両親の想いをいつも感じていた。そして、いつだったかお父さんはこの場所で言ったんだ!

ーー恵(めぐみ)、強くなりなさい。たとえ一人になろうとも生きていけるように。

 顔を上げると女の子は柔らかな笑みを浮かべており、一瞬だけお母さんと重なった気がした。

「……想い出した」
「よかったですね。また泣けて。ほんとうによかったです」
「え? わたし、泣いてる?」
「その目からこぼれているのは涙ではありませんか?」

 震える手で右頬に触れると、微かに温かい雫が指を濡らした。わたしはその指を口に含んだ。

「……しょっぱい。わたし、泣いてる」

 わたしは本当に泣くことを忘れていたみたいだ。そのせいで自分が泣いている実感がない。
 泣くことに心が追いついていないようだ。
 大粒の涙が決壊したダムのようにだらだらと垂れ流しになっている。
 自分では止めることも声をあげて泣きわめくこともできない。だんだんと焦りが出てくる。

「どうしよう、これ」
「う〜ん、半分手をくれでしたか。「悲しい」という感情が今のあなたにないようです。心を守るために捨ててしまったんですね。生理現象のように泣いているんです。」
「そんな……。わたし、ずっとこのまま?」
「いえ、少々無理矢理ですが方法がないわけではありません。今から雨を降らします。ただの雨ではありません。「悲しい」感情の成分入りです!あなたはただ雨に打たれているだけで皮膚から悲しみ成分が吸収され、感情を取り戻せます」
「そんなんで本当に?」
「はい、体験すれば分かりますよ!」

 確かにそうだ。自分ではどうしようもないのだから女の子に任せるしかない。
 ただ女の子に世話になりっぱなしであることが悔しい。もうこんな情けない自分はいやだ。
 元に戻ったら、もっともっと強い人になろう。両親の想いに応えたい。強い人になるために必要なものはもう両親からもらっているのだから。
 わたしはこれが最後と決めて、女の子に言った。

「お願い、わたしを救って」
「もちろんです。そのためにあたしがいるのですから」

 女の子はワンピースのポケットから小さな瓶を取り出し、蓋を空けた。
 すると中の青い液体が蒸発し煙のようにモクモクと頭上にのぼっていく。しばらくすると煙が密集し、小さな雲になった。
 いったいあの液体は何でできていたのだろう。もう十分不思議を体験しているせいか、驚きよりも雲に対する興味が湧いている。
 
ーーぽつ、ぽつ

 「あ……」

 雨が降り出した。雲を見上げるわたしの顔に雨粒が当たる。
 どんどん雨は強くなっていく。
 そして、濡れれば濡れるほど身体の内側から熱いものが込み上げてくる。
 わたしは思い出し始めていることに気づいた。泣くときの感覚を。
 顔が、胸が、熱い。熱があるように。口が、手が、震える。顔が歪み、あとはーー

「あ……ぁあ……」
「大丈夫、雨音で誰にも聞こえません」

 その女の子の言葉が合図になったように、雨音が他のすべての音をかき消すほどの強さになった。
 そして雨音がわたしの合図になり、

「わああああああああぁぁああああああああああ!!」
 
 ついに泣き叫んだ。精一杯、声を絞り出す。それを雨音が綺麗にかき消してくれる。
 わたしに打ち付ける雨が苦しい気持ちを綺麗に流してくれる。
 ようやく、わたしはちゃんと泣けた。
 


 どれだけそうしていたか分からないけど、声も出なくなり、涙ももう流れてこない。わたしは口で大きく呼吸をする力しか残っていなかった。
 泣き疲れるのは二年ぶりだ。でも二年前とは違って、晴れ晴れした気持ちだ。全身ずぶ濡れだけど。
 
「もう大丈夫ですね。ここから人生の再スタートって顔しています」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、帰りましょう!」
「ま、待って! わたし、まだここにいたい」
「今度は自分の足でここに帰ってきてください。これからどうするかはゆっくり考えればいいです。ね?」
「あ、うん。そうだね、帰ろう」

 今度は自分でここに戻ってこよう。
 女の子は来たときと同じように踊った。とても嬉しそうに。
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