もっと旨い菓子が食べたい。
 Kの舌は未だ見ぬ理想の菓子を求めてじりじりと宙を舐め、腹はぐうぐうと貪欲な音を響かせていた。
 ここは明治製菓企画開発部商品開発一課菓子担当チョコレート班。班長のKは皆が帰った後も試作室に引き籠り、連日深夜まで新商品の開発に打ち込んでいた。
「たけのこの里、アルフォート、ホルン、カントリーマアム、フラン、ポッキー、トッポ、ブランチュール……」
 誰もいないことをいいことに商品名をぶつぶつと呟きながら、Kはこれらの共通点について考えていた。ロングセラーから最近のヒット作まで、これらは全て「クッキーとチョコレートが合わさった商品である」。それが売れることは無論K以外の皆も気付いている、だからこそこのクッキー×チョコ戦線は次々新製品が送り込まれる激戦区でもある。その中でキラリと光る新製品を作り上げたい。Kはそう思っていた。なぜなら彼自身このクッキー×チョコ戦線の虜であったから。
 アルフォートのファミリーパックが常備されている家庭で育ち、遠足の三百円以内のお菓子はたけのこの里とポッキーを必ずチョイスした。思春期はフランの華々しい登場と時を同じくし、明治製菓に入社して以来念願のチョコレート班への異動がついにかなった。次回社内コンペまでに、なんとしても、結果を出したい、なんとしても……。そう意気込んでいたものの作業は行き詰まりを見せていた。試作室には夥しい数のクッキー、チョコレートの欠片や調理器具が散り、凄惨な様相を呈している。
 Kは気分を変えようと思い、だらしなく口を開けているカントリーマアム徳用袋から慣れた手つきでバニラとココアを四個ずつ取り出し、レンジでチンした。売店で買っておいた牛乳も温めて飲めば腹持ちが良く夜食代わりになる。
「そう言えば受験期もいつもこうしていたっけ」
 しかし糖が全て脳に行く受験生なら良いものの、三十を超えた大人がその頃と変わらぬ調子でカントリーマアムを夜中にばくばく食べるのは、自身の健康を考えるとあまり感心できることではない。ところが定期健診の血糖値の異常さは、この明治製菓ではむしろ勲章扱いされ、自慢になるのだった。健康を考えてお菓子の摂取量を適切範囲にとどめる方が馬鹿らしくなってくる。
「菓子に生き、菓子に狂わされる人生だな……ああ、いっそ、狂うほどに旨い菓子を作ってみたい。狂ってもいい、悪魔的に旨い菓子を」
「呼んだー?」
 背後で声がしてKの背筋が凍りついた。誰もいないと思っていたのに。ゆっくり振り返ると、黒い塊がこちらを見ていた。Kははじめ、自分の影が喋ったのかと思った。
「フ……砂糖のオーバードーズで幻覚が見え始めたか……、これで俺も伝説の開発者の仲間入りかな……」
「幻覚ー? 何言ってんだか分かんないけど、僕はいるよ。ほら、透けない」
 黒い塊はKの手をむんずと掴むと自分の腹に引き寄せた。果汁グミのような柔らかい感触が手に伝わる。
「ヒッ」
と手をひっこめると、
「僕は悪魔。呼ばれた気がして来たんだけどー、そんなんなら、帰っちゃうよ?」
 黒い塊は羽根を広げて飛び立とうとした。そう、羽根があるのだ。よく見るととんがりコーンみたいな小さな角も額にくっついている。
「ほ、本物ですか?!」
「本物も何もー。見ての通りですよー。サインとか要るー?」
「あの、魂の契約とか、ですか?!」
「いやー、そういう西洋式のやつは面倒臭いからいいやー。ただ、君のその貪欲なところが、すごく気に入ったわけ。ある意味悪魔的っていうかー。だから、協力してあげようかなと思ったんだ、そのお菓子作りってやつ」
「えっ!」
「僕が協力したらおいしいお菓子が出来ることうけあい。なんてったって人類が生まれる前から僕はいるし、人類が作った全てのお菓子は食べ尽くしてるんだからね。マジでほっぺた落ちるよ。昇進確実、将来安泰、人生バラ色だよ!」
「ほ、本当ですか?!」
 悪魔が作るお菓子なんて、絶対旨いに決まっている。たとえこれが幻覚にしても、失うものが何も無いのだから、言うことを聞いてみたっていいじゃないか! 残業続きで頭がフワフワしていた彼は理性のガードが少し緩くなっていた。
「協力、してください!」
「後悔しない?」
「なんでですか。しないですよ」
「いやーねー、悪魔の契約ってってサラ金みたいなもんだから、あとでやっぱやめるとか言われると、ペナルティがキツいわけよー」
「やめるわけ無いじゃないですか。だって、サラ金と違って何も返さなくていいんでしょう?」
「うん。君が後悔を感じない限りはね」
「なんで後悔しちゃいけないんですか。しないけど」
「悔い改めるのは神様の領分だからさー。胃もたれしちゃうのよ。じゃあ、約束してね。君の欲望をノンストップで追求してくれるって」
「はい!」
「じゃ、明日の朝をお楽しみにね!」
 悪魔は番組予告のごとくそう言うと勢い良く羽根をはばたかせて窓から飛び去っていった。
 残されたKはフワフワした気分のまま一人暮らしのアパートへ帰ると、急に疲れを感じて倒れるように就寝したのだった。
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