青い檻


 学祭の前日だった。夕暮れを過ぎて暗い教室に置き去りにされたままの通学鞄の中に、あなたの青いマルはあった。あなたは祭りの準備の後は陸上部の練習に出ていて不在で、他にいくつかあった鞄の持ち主もあなたと同じ陸上部員のものだった。

普段なら鞄も手にして部室に向かうはずだが、直前まで学祭の準備があったために教室に置いていくことになったのだろう。わたしは明日提出の進路表を取りに一人教室に戻ったところで、そういういくつもの偶然が重なって、わたしはあなたの青いマルに辿りついた。


わたしはあなたのことがもう二年も好きで、あなたのことなら何でも知りたかった。あなたがどうしてあなたになったのか、例えばどうして金曜日の夜だけは家と逆の電車に乗るのかとかそういうことが。だからわたしは躊躇もせずにあなたの鞄の中を覗き、黒い小さなスケジュール帳を見つけ、気が逸って震える指でそれを開き、誰ひとり立ち入れない厳重な檻のように太く隙のない青マルがその月のすべての金曜日につけられているのを見た。


 欲求はわたしの道徳をますます侵して、次の金曜日にあなたの後を尾けさせた。あなたはやはり家とは逆の急行電車に乗り、八駅目で降りた。がやがやした街角では方々で学生らしき若者の演劇場への呼び込みの声があった。それを何とか避けながら歩くわたしとは反対に、あなたはまるで細く狭い壁に守られた一本道を歩いているかのように行ってしまう。その先にあなたの姉が子どもを抱いて、あなたに向かって小さく手を振っているのが見えた。


あなたの姉はわたしたちの町じゃ美人で有名で、でもいつの間にか町を出てから先は噂さえ消えてしまった。彼女の子どもはまだ小さく四方八方から鳴る音を追いかけるかのように目をきょろきょろさせている。


あなたはあなたの姉に小さく手を上げて応えると、わざとらしい仕草で肩の通学鞄を背負い直し、わたしが思っているより三歩も彼女に踏みこんで近づいた。そのあまりの近さに鳥肌が立って、慌てて通行人のふりをして脇を通り過ぎて見たら、あなたは今にも泣きそうな顔で姉の髪に指を通し、それを後頭部まで滑らせていた。


空の青は深くなり、いつの間にか黒い雲に飲まれ始めていた。揚げ物や名前の分からない甘いにおいの中であなたたちは浮いているはずなのに、その表情は街灯の頼りない明かりでうまく隠されていて、むしろ美しくさえあった。


あなたの青いマルのなかで、わたしの胸は潰れそうだった。こんなところで愛など見てしまったせいだと思った。でもわたしには僅かな声も上げる資格はない。わたしには同じクラスという他にあなたとの接点は何もなく、そもそも名前さえ知られているか怪しい。あなたは住み慣れた町から八駅も離れたところで、こうして頭のおかしい女に嫉妬と絶望とを与えていることなんか想像もしないだろう。そう、しないのだ。だってここはあなただけの檻だからだ。


「これ、落ちていたよ」


 尾行から三日、拾ってからは一週間も経ってわたしは盗んだ手帳を返した。あなたは怪訝な様子で受け取って「誰だっけ」と尋ねた。

「関根茜」

言うと、「変な名前だね。苗字も名前もねで終わる」と不躾に言ってあなたは笑った。

「中、見ちゃったの、ごめん」

「いいよ、別に。特に困ることは書いてない」

「金曜日だけ青いマルで囲んであったね」

「あー、結構しっかり見てんね。まあいいや。その日は塾なんだ。だから、忘れないように」

「塾、好き?」

「嫌いだよ。でも今はどうしても行かなきゃならないから」

「行かなきゃならない」

「うん、だって中三だし」

「逃げちゃえばいいのに、嫌いなら。行かなくたって大丈夫だよ、頭いいんだし」

「良くないよ、すげえ馬鹿なんだ、おれ。そうできたらいいけど、結局は逃げられない。だから嫌いだけど実は好きなのかもしれない」

「じゃあ今週の土曜日についていたバツ印は」

「あーそれは。おれの姉ちゃんが再婚する日なんだ。ていうか、ほんとによく見てんね」


 あなたはそう言ってまた笑う。なんでバツという問いをわたしはもう聞けなくなって、代わりにその笑顔を閉じ込めてしまいたくなる。ふとカレンダーの今日を青く囲んでみたらどうだろうと思う。そのマルは祈りで無力さで、怒りで諦めで思慕で愛だ。あなた一人にわたしは色んな感情を抱えて、それをぶつけてしまうからきっとマルは太くなる。だからあなたのマルもそうなのだろうか。だって嫌いというくせに、あなたが姉に会う日の青いマルはとても美しく丁寧で強く、等間隔に並ぶと落涙の跡のように悲しみに満ちていた。


じゃあ、とあなたは手帳を胸ポケットの奥に滑らせ、手も上げずに去っていく。交わったはずの線がまるで見間違いだったみたいに薄れだす。まだ行かないでと言う代わりに、早く青で閉じ込めなくてはと思い直す。もしそうして同じ青い秘密を持つことで今以上にあなたの抱えている孤独に触れてしまうとしても。


 あなたはまだ見えている。ここには手帳も紙もペンすらないので、だんだんと小さくなっていくあなたの後ろ姿を指で作ったマルの中に閉じ込めてキスをした。檻はまだ柔く、簡単にがたがたと揺れ、歪んだ。それでもわたしは何度もそれを濃くなぞって繰り返すだろう。これは、わたしだけの檻なのだ。例え執拗な繰り返しに傷んで破れて壊れても、あなたは確かにわたしの青春だった。わたしだけの。(了)

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