「みさみさ~っ! 事件よっ! 事件っ!」

 私が仕事を終え、職場の自動ドアをくぐったその時、見慣れた女が興奮した面持ちで走り寄ってきた。

 げっ。あいつまた性懲りもなく。

 反射的に私の表情筋が強張る。

 私はそそくさと通行の邪魔にならない空間に移動した。

 目前までやってきた女はその場でしゃがみ込むと、そんな大した距離を走った訳でもないだろうにハアハアと息を切らしていた。私はそれを無表情で眺める。

 ようやく呼吸が整ったらしい女がゆっくりと起き上がって言った。

「さあ、行くわよ」

 何が『さあ』だ。そのスカした横っ面を思わず引っぱたきたくなる。

「はーっ…。またかぁ? 事件とやらは昨日片付けたばかりだろ。さすがに今日は休ませろよ」

 私はハエでも追い払うように女の眼前でシッシッと手を振り、拒絶の意思を示した。

「なに甘えたこといってんのっ! 探偵に休みなんて存在しないのよ」

 しかし女はそういって私の右腕を掴んでくる。

「わたしゃ探偵なんてなったつもりはこれっぽっちも無いんだけどね」

 私は渋面を浮かべながら小声でぼやいた。

「いいからいいから。さっ、今から作戦会議ね。マック行くよっ」

 女は勝手にそう決定し、ズルズルと強引に私の身体を引き摺っていく。

「おいっ、コケるだろっ。もっとスピード緩めろ」

 私が抗議すると、女は振り向きもせず舌打ちする。

「事は一刻を争うのよ」

 嘘くせえ…。

 この女が持ち込んできた『事件』とやらで、火急だったことなど一度もない気がする。

「当然奢りだろうな…」

 華奢な体形にそぐわない女の膂力に辟易しながらも、私は彼女の耳元でつぶやいた。

「もう、がめついなぁみさみさは。昨日もジュース奢ってあげたじゃん」

 女はそう言って不服そうに唇を尖らせる。

「それは昨日の成功報酬だろっ! しかも報酬がジュース一本って、いまどき中学生でも無いわ」

 私が呆れ顔で言い返すと、女は諦めたように小さな溜息をつく。

「ふぅ、仕方ないなぁ。じゃあ今日はうちが出すよ。その代わりそれが成功報酬の前払いだかんねっ」

 女はしれっと図々しいことを言ってのけた。

「成功が前提なのかいっ! まだ話も聞いてねーのに」

「当たり前でしょ」

「しかも前払いって何だよ! このマックは相談料だろ、常識的に考えて」

「何を言うの、みさみさ」

「もちろん報酬は別だかんな」

 私は至極当たり前の主張をしたつもりだった。

 すると。

 女は急に足を止めてこちらに向き直り、今度は私の両肩をガッと掴んできた。

 驚いたことに、女はウルウルと瞳を潤ませている。今にも涙が零れ落ちてきそうだ。

「お、おい。何も泣く事ないだろ」

 私がうろたえ気味にいうと、女は鼻がくっつきそうな距離まで顔を近づけてきた。

「みさみさ…。うちらは親友同士じゃなかったの?」

「え、そうなのか?」

 急にそんな事を言われて、私はつい正直な反応を示してしまう。

「そっか。やっぱうちの独りよがりだったんだね」

 女が悲しげに呟く。

「ま、そのなんだ、一応友達っぽい関係だとは思ってるぞ、うん」

 根がお人好しな私はどうも非情になり切れないところがあり、心ならずもフォローめいたことを言ってしまった。

「友達…かぁ。まぁそれでもいいや。でもみさみさはさ、友達のうちが何かお願いごとするたびにお金を取ることばかり考えてるじゃない」

 だが女は私の葛藤などお構いなしに勝手な言い分を繰り出してきた。

「人を金の亡者みたく言うな。現金よこせなんて一度も言ったことねーだろ」

 私がそう反発すると、女はわざとらしく失望を露わにした表情を浮かべる。

「同じようなものよ。でもそんな些細なことどうでもいいの」

 人を守銭奴呼ばわりしておきながら、今度はそれを『些細』と切リ捨てる。いったいどういう了見だ。

「じゃあ何が不満なんだよ」

 私が投げやりに問うと、女はフッと息をつき、おもむろに口を開く。

「こっちだってお礼したい気持ちはあるわ。当然よ。そのためのお金なら全然惜しくない。でもね、親友だと思ってた貴女が『損得』というフィルターを通してしかうちという人間と関わってくれない現実が悲しいの。積み重ねてきた絆はそんなに薄っぺらいものだったのかなぁって」

 女は陶然とした口調で全く真実味の感じられない言辞を並べ立てた。

 はっ。言うに事欠いて『絆』ときましたか。私はプッと吹き出しそうになったが、陶酔顔でこちらを見つめている女の手前それはできない。

「何だよそれ。私がさも打算的な人間みたいな言い方しやがって」

 私は一応怒ったような表情を作ってそう言い返した。

 しかし彼女はそれに応えず、しばらく沈黙してからゆっくり口を開いた。

「もういい。不毛な議論なんてしたくない。うちはただ……寂しいだけ」

 女はそう言って、とうとうボロボロと大泣きしはじめた。豪快に鼻水のおまけつきで。

 私は完全にうろたえた。

「おいおいおいっ! こんなところでガチ泣きするんじゃないっ」

 いつの間にか周辺にいる人々も何事かとこちらに視線を向けている。

「だって~、だって、みさみさが」

 女は幼児退行したかのように泣き叫ぶ。何が『だって』だ。こいつに恥という概念はないのか。

 これじゃ私が女の子を泣かす悪い男みたいである。ていうか私もれっきとした女のはずなんだが。

 こんな三文芝居みたいな成り行きに屈するのは不本意だったが、この場を収めるには仕方がない。私が大人になることにした。

「ごめん。悪かったよさくら! そうそう、私たち友達だったよな。冷たい言い方してすまなかった。もうワリカンでも何でもいいからさっさとマック行こうや!」

 私はそう言うと、今度は逆に自分が女の腕を引っ張って逃げるようにその場を離れた。

 私の職場があるこの区画は小さなショッピングモールになっており、こいつが私を拉致しようとしたハンバーガーショップもテナントに入っている。あと数十メートルも歩けばそこが目的地だ。甚だ理不尽ではあるが、こいつを大人しくさせるにはその『事件』とやらの話を聞いてやるしかあるまい。

 はぁ……。結局こうなるのか。

 心の中で深い溜息をつく私だった。

 

つづく




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